写真を切り刻み縫い合わせる

<第3章 メディア化する写真家と非文壇の形成>

 ---2 非文壇の形成―――ラジオ、テレビ、週刊誌、都市

⑥―――写真屋・寺山修司 荒木経惟の弟子に  しかし写真を切り刻む

 

歌人から戯曲家へと活動が広がっていくなかで、寺山に写真家とのつながりも生まれていく。

その結果、写真からフィルムの撮影監督へと拡張する写真家も生まれた。

寺山の実験映画では、『檻囚』(モノクロ調色11分/1962)では立木義浩が(*出演も)、『トマトケチャップ皇帝』(モノクロ調色27分/1971)『ジャンケン戦争』(モノクロ調色12分/1971)では沢渡朔が、撮影監督を務めた。

 

左翼系の月刊誌『現代の眼』(現代評論社)に寺山が連載した、ボクサーとそのライバルとの若者二人の新宿で生きる姿を描いた長編小説「あゝ、荒野」の編集担当の中平卓馬は、写真家に転身する。

連載元より単行本化された際(1966)、表紙の写真を森山大道が手がけた。

その後、寺山が雑誌『俳句』(角川書店)のエッセイに添える写真を森山に依頼し(森山が『カメラ毎日』の編集者・山岸章二に持ち込む写真ともなる)、やがて森山最初の写真集『にっぽん劇場写真帖』(1968/室町書房)となった。

このとき、寺山が散文詩を寄せた。

 

評論集『書を捨てよ、町へ出よう』で写真を手がけた吉岡康弘は、それ以前に、勅使河原宏小林正樹大島渚などの映画監督の作品でスチール写真を担当。

映画版『書を捨てよ、町へ出よう』では、天井桟敷の芝居がアメリカ人キャストによってニューヨークで上演された際、現地での出会いをきっかけに、写真家・鋤田正義が撮影監督を務めている。

写真・漫画・デザインによって書物を舞台化した著作『ガリガリ博士の犯罪画帖』(新書館)では、篠山紀信が撮影を手がけている(1970)。

 

多くの写真家と共同作業を行ってきた寺山は、読売新聞社から写真集の出版の依頼を受ける。

内容以前にまずは、『寺山修司幻想写真館 犬神家の人々』とタイトルを付けた。

このとき、技術を覚えるために寺山は、荒木経惟に弟子入りする(1973)。

荒木が私家版の写真集『水着のヤングレディたち』を寺山に送って以来交流が生まれており、寺山は、写真集に載っていた水着の女性たちの電話番号に電話をかけたともいう。

けれども、弟子入りといっても、荒木の元で、寺山は機材を持つなどの作業は後回しに、荒木がモデルの撮影を始めると、自分のカメラでモデルの撮影を始める始末だったという。

さらに、古い写真を撮影し、切り刻んだのち、縫合し、再撮影。

また、モノクロ写真を撮影し、人工彩色したのち、切手を貼り、消印を押す。

一筆を添え、日干しにし、時代を限定されない「にせ絵葉書」も作成した。

寺山は、写真の記録性・加工性に惹かれ、写真家ではなく、「幼少時より、写真屋に憧れていた」と述べた。

 

寺山修司幻想写真館 犬神家の人々』は、寺山初の写真展として、ギャルリーワタリ(現・ワタリウム美術館)で開催されたのち(1974)、写真集(読売新聞社)として刊行された(1975)。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

寺山修司『戯曲 毛皮のマリー 血は立ったまま眠っている』(2009/角川文庫)

長尾三郎『虚構地獄 寺山修司』(1997/講談社

九條今日子『回想・寺山修司 百年たったら帰っておいで』(2005/デーリー東北)

久世光彦/九條今日子/宗田安正 責任編集『寺山修司 齋藤槇爾の世界 永遠のアドレッセンス』(1998/柏書房)

荒木経惟『天才になる!』(1997/講談社現代新書

 

f:id:miyakeakito2012:20170805221533j:plain

筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

 

文学からの接近

<第3章 メディア化する写真家と非文壇の形成>

 ---2 非文壇の形成―――ラジオ、テレビ、週刊誌、都市

⑤―――頭を下げる三島由紀夫

 

天井桟敷の活動は、大物文芸家との関わりも生むこととなった。

 

主演・丸山(美輪)明宏のために制作した、旗揚げ公演『青森県のせむし男』と第3回公演『毛皮のマリー』(ともに1967)を見た三島由紀夫は、自身の舞台の主演に丸山を指名する。

江戸川乱歩の小説を戯曲化した舞台『黒蜥蜴』の再演だった(1968/松竹と東急提携)。

このとき、三島は電話で、寺山に丸山を借りたいと頭を下げている。

また、天井桟敷の初期の活動拠点となったアートシアター新宿文化では、寺山の活動をきっかけに新たな小劇場「アンダーグラウンド蠍座」が作られることになった。

このとき、命名を三島由紀夫が行っている(1967)。

 

寺山は、三島との対談で、三島が以前に赤軍派が唱えた東京戦争が有言実行されなかったことにふれ、次のように述べている。

 

寺山 しかし、政治的言語と文学的言語の波打際をなくしていくという、わけのわからない乱世の中におもしろ味があるわけですよ。

三島 でも、それをおもしろがっちゃいけないんじゃないのかね。それでは文学もダメになると思うんだよ。

寺山 両方ダメになってもいいんじゃないかっていう感じもあるんですよ(笑い)。

  

三島と対談を行った年、寺山は、「あしたのジョー」のアニメ版の主題歌の作詞も行った(1970)。

高森朝雄梶原一騎の変名)原作・ちばてつや作画の漫画「あしたのジョー」は、少年漫画雑誌『週刊少年マガジン』(講談社/1959年創刊)で連載され(1968-73)、大人気となっていた。

漫画が嫌いだったというが、寺山は、ボクシング漫画であったことで特別に関心持ったという。

主人公・矢吹丈のライバル・力石徹が漫画のなかで亡くなった際、東京キッドブラザースで活動していた東の呼びかけに応え、寺山は葬儀委員長を務め、葬儀を出した(講談社講堂/1970)。ここでも書を飛び出した。

 

実際、寺山は何を考えていたのか?

元夫人・九條映子(現・今日子)が明かしている。

寺山は、新聞、雑誌などに掲載された自身の記事を集めており、「三島由紀夫よりも谷川俊太郎よりも今月は多い」などいいながら、どのようにすればメディアに取り上げられるかを常に計算していたという。

テレビ、ラジオ、週刊誌など、ニューメディア誕生ラッシュ以後のありようだろう。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

寺山修司『戯曲 毛皮のマリー 血は立ったまま眠っている』(2009/角川文庫)

長尾三郎『虚構地獄 寺山修司』(1997/講談社

九條今日子『回想・寺山修司 百年たったら帰っておいで』(2005/デーリー東北)

久世光彦/九條今日子/宗田安正 責任編集『寺山修司 齋藤槇爾の世界 永遠のアドレッセンス』(1998/柏書房)

荒木経惟『天才になる!』(1997/講談社現代新書

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

書を捨てる

<第3章 メディア化する写真家と非文壇の形成>

 ---2 非文壇の形成―――ラジオ、テレビ、週刊誌、都市

④―――『書を捨てよ、町へ出よう』(1967)

 

寺山修司は、これまで戯曲の提供のみだったが、31歳になった1967年、劇団を主宰する。

演劇実験室「天井桟敷」になる。

横尾忠則、のちに東京キッドブラザースを結成する東由多加、詩人・萩原朔太郎の孫・朔美らが創設メンバーとなった。

フランスの映画監督マルセル・カルネの映画『Les Enfants du Paradis(邦題:天井桟敷の人々)』に由来するともいわれる。当初は新宿(アートシアター新宿文化)、その後は、渋谷、麻布十番を拠点に活動を行った。

 

寺山は、劇団を立ち上げると文壇への宣言とも取れる書物を発表する。

評論集『書を捨てよ、町へ出よう』(1967/芳賀書店)になる。

イラストは横尾忠則

写真を吉岡康弘が手がけた。

タイトルは、フランスの小説家アンドレ・ジッド(ノーベル文学賞受賞者)の詩文集所収のフレーズが元になっているといわれる。

刊行の年、ベトナム戦争への日本政府(佐藤栄作内閣)の加担に反対した学生たちによる「羽田闘争」が起こっている。

 

評論集は2年後、『ハイティーン詩集 書を捨てよ、町へ出よう』として、天井桟敷で舞台化された(新宿厚生年金・小ホール)。

舞台は、寺山が学習雑誌『高一コース』『高三コース』(ともに学研)で詩の選者を務めていた投稿コーナーを書籍化した『ハイティーン詩集』(1968/三一書房)が元となり、投稿者は舞台にも立った。

 

こうしたプロとアマチュアの垣根を取り払う試みは、舞台スタッフ間でも行われる。

デザイナーの和田誠(当時ライトパブリシティ所属)や役者J・Aシーザーらが舞台音楽を担当。

当時シャンソン歌手だった丸山(美輪)明宏の役者初舞台も寺山作品からだった。

 

寺山は、1960年代より、テレビアニメなどの作詞も手がけていたが、天井桟敷の新人女優で当時17歳のカルメン・マキの歌「時には母のない子のように」(1969)の作詞を手がける。

このときも、作曲を天井桟敷の制作・照明スタッフの田中未知が担当している。

レコードは、前年設立されたばかりのCBSソニーから発売され、CBSソニーの邦楽の最初の大ヒットに。

役者だったカルメン・マキは、歌手として、同年、レコード大賞の各音楽賞の候補となり、NHK紅白歌合戦に出場している。

 

さらに、天井桟敷は、フランクフルト国際演劇祭など海外遠征も開始。

その活動範囲を国外にも広げていく(1969-)。

寺山がイタリアで賞を受賞したラジオドラマの翻訳を担当した舞台演出家マンフレッド・フーブリヒトの依頼がきっかけだった。

 

こうしたなかで、『書を捨てよ、町へ出よう』は、映画化も行われた(ATG配給/1971)。

寺山初の長編となったこの映画では、物語のクライマックス、主人公が本名を名乗り、真っ暗な映画館のなかから、作りものの世界から現実の世界へ出よ、と呼びかけた。

映画は、サンレモ国際映画祭グランプリを受賞している(イタリア)。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

寺山修司『戯曲 毛皮のマリー 血は立ったまま眠っている』(2009/角川文庫)

長尾三郎『虚構地獄 寺山修司』(1997/講談社

九條今日子『回想・寺山修司 百年たったら帰っておいで』(2005/デーリー東北)

久世光彦/九條今日子/宗田安正 責任編集『寺山修司 齋藤槇爾の世界 永遠のアドレッセンス』(1998/柏書房)

荒木経惟『天才になる!』(1997/講談社現代新書

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

文学から遠ざかる

<第3章 メディア化する写真家と非文壇の形成>

 ---2 非文壇の形成―――ラジオ、テレビ、週刊誌、都市

③―――歌人・詩人・放送作家・戯曲家・評論家  寺山修司

 

野坂昭如と同じく戦後のニューメディアを活動の拠点としたのが、寺山修司になる。

 

寺山は、青森県に生まれる。

出稼ぎの母と遠く離れ、親類の家で暮らす中学生のとき、友人の影響で俳句にのめり込む。

早稲田大学入学とともに上京し、今度は、短歌にのめり込んだ。

病のため、大学生活がままならないなかで、当時、短歌雑誌『短歌』(角川書店)の編集長を務めていた中井英夫(『虚無への供物』)によって見出され、第1作品集『われに五月を』(作品社)を刊行。

続けて『はだしの恋唄』『空には本』(ともに的場書房)を刊行した(1957-1958)。

 

その後は、友人・谷川俊太郎のすすめで、ラジオドラマを手がける(ラジオ九州)。

谷川は、寺山が在学中に組織した詩劇グループ・ガラスの髭の舞台を見て感動し、交流を持った。

寺山は、最初のラジオ作品が民放祭・大賞を受賞した。

 

文壇との交わりは、24歳のときになる。

文學界』に発表した戯曲「血は立ったまま眠っている」と小説「人間実験室」になる(1960)。

「血は立ったまま眠っている」は、安保闘争を背景にテロリストを夢見る若き男二人を描いた。

劇団四季の舞台のための戯曲であり、掲載された同月、上演された。

 

野坂はニューメディアから登場したのち、中央公論社文藝春秋とのつながりを深めていくが、寺山の場合はすぐさま文壇から遠ざかっていく。

「血は立ったまま眠っている」について寺山は、「要するにこの戯曲ははじめから「文学」をめざしており、そのことが決定的な弱点となっている」と述べた。

 

以後は、松竹時代の篠田正浩監督作品の脚本や、文学座といった“5社協定”の外側にある劇団の戯曲、実験映画の監督も手がける。この頃、石原・大江・開高らが2年前に結成していた「若い日本の会」に最年少メンバーとして参加(1960)。

また、テレビドラマの脚本、ボクシング評論、競馬評論を始めている。

 

寺山は、やがて、若者に向けた発言を積極的に行っていく。

大学での講演や学生向けの新聞に書いていた「家出のすすめ」をまとめたエッセイ集『現代の青春論 家族たち・けだものたち』(三一書房/1963)がその最初となった。

続いて、少女向けの詩集レーベル「フォアレディース」(新書館)から、宇野亜喜良(日本デザインセンター出身)の挿絵による詩集を出した(1965)。

 

同時に、1964年から66年にかけて手がけた、ラジオドラマ、テレビドラマは多数の賞を受賞している。

ラジオドラマでは、『山姥』(NHK)がイタリア賞グランプリ賞受賞、『大礼服』(中部日本放送)が芸術祭奨励賞受賞、『犬神の女』(NHK)が第1回久保田万太郎賞受賞、『コメット・イケヤ』(NHK)がイタリア賞グランプリ賞受賞。

テレビでは、インタビュー『あなたは…』(TBS)が芸術祭奨励賞受賞、『子守唄由来』(RKB毎日放送)が芸術祭奨励賞受賞などになる。

 

寺山は、この時期、戦後さらに普及したラジオ、戦後生まれのテレビを主な拠点とした。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

寺山修司『戯曲 毛皮のマリー 血は立ったまま眠っている』(2009/角川文庫)

長尾三郎『虚構地獄 寺山修司』(1997/講談社

九條今日子『回想・寺山修司 百年たったら帰っておいで』(2005/デーリー東北)

久世光彦/九條今日子/宗田安正 責任編集『寺山修司 齋藤槇爾の世界 永遠のアドレッセンス』(1998/柏書房)

荒木経惟『天才になる!』(1997/講談社現代新書

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

"エッセイ"で文壇を作る

<第3章 メディア化する写真家と非文壇の形成>

 ---2 非文壇の形成―――ラジオ、テレビ、週刊誌、都市

②―――元テレビ局アルバイト・中央公論社編集者  村松友視の暗躍

 

野坂昭如が「エロ事師たち」(1963)で文壇と交わることになった『小説中央公論』。

加納典明が「オ××コ」(1970)で文壇と交わることになった『海』。

ともに、中央公論社(現・中央公論新社)の雑誌になる。

両誌の編集者に村松友視がいる。

 

村松は、慶応義塾大学在学時代、NET(現・テレビ朝日)でアルバイトをする。

当時はテレビ局の入社試験が制度化されておらず、アルバイトから契約社員、そして正社員という流れだったという。

村松も漠然とそうした就職を考えていたというが、東京オリンピックの視聴需要によって爆発的に普及したテレビの世界で、就職の制度化が始まったという(1963)。

結局、テレビ局には就職できず、祖父のコネを使って中央公論社に入社する。

 

村松の祖父は『中央公論』で文芸家デビューした村松梢風で、両親も中央公論社で働いていた。

村松は、それまでのカジュアルなテレビの現場に対して、編集部は職員室のような現場と感じたといい、そのカジュアルさを中央公論社に持ち込むことになる。

 

配属された『小説中央公論』では、ちょうど野坂の「エロ事師たち」を掲載していたが、半年ほどで雑誌が休刊に。

次いで村松は、『婦人公論』の編集者となる。

編集者として1日1人興味のある人物に会うことを決めると、短編映画を見て感銘を受けた伊丹十三に電話。

交流が生まれ、原稿を依頼する。

伊丹は、映画監督・伊丹万作の息子で、河出書房でデザイナー・映画俳優・映画監督・エッセイストとして多彩に活躍していた。

 

村松と伊丹の連載は、素朴な疑問を専門家に話しを聞き、イラストと文で伊丹が答える内容となった。

のちに『問いつめられたパパとママの本』として単行本化された(1969/中央公論社)。

伊丹は、連載中にテレビのワイドショー『2時ですこんにちは』(日本テレビ系)の司会も引き受け、さらに人気者となっていく時期となった。

 

その後、村松は『海』へ移動。

野坂の担当の他、伊丹に小説を書かせることを夢見ながら(*未実現)、劇団・状況劇場を率いていた戯曲家・唐十郎の戯曲や短編を掲載(1970年より)。

美術家・赤瀬川源平に小説を依頼(1978)、ミニコミのブックガイド『本の雑誌』編集長でコラムも執筆していた椎名誠に小説を依頼(1980)するなど、非文壇的な取り組みを行った。

その村松は、中央公論社退社後、文芸家へ転身し、直木賞受賞者となっている(1982)。

 

このブロックの終わりに、村松の祖父・梢風についてふれておきたい。

梢風は、慶応義塾大学中退後、電通の葬式回りの記者から、投稿した「琴姫物語」が『中央公論』の編集者・滝田樗陰に認められ、文壇デビューを果たした(1917)。

京都の公卿の娘が堕落し、関東で詐欺めいたことを行い、京都に送り帰される話だった。

 

当時『中央公論』の誌面は、<論説><説苑><創作欄>の3つにわかれており、<説苑>では、文士であるが小説家ではない人物、別の立場を持っていた人たちが執筆していた。

そのため、“随筆家”とも称された。

滝田は、固めの<論説><創作欄>と同等に、柔らかめの<説苑>も読者獲得のために大切なものととらえていた。梢風の「琴姫物語」も<説苑>で扱われた。

 

梢風は、次作も<説苑>として依頼を受け、吉原の花魁・稲葉への身の上話の取材を元にした「朝妻双紙」を書いた。

以後、梢風は、<説苑>で吉原物を中心に発表していく。

 

当時、男女のむつごとを描いたものは情話と呼ばれた。

<説苑>で情話を書いていた一人・大泉黒石が<創作欄>へ執筆した際、芥川龍之介が「情話作家に創作欄を提供することが不愉快」と物言いをつけた。

滝田は、「編集上のことは社で決める」と突っぱねたが、尾崎紅葉門下で文壇の長老格であった徳田秋声らを巻き込みさらなる抗議が行われ、屈服した。

 

梢風は、その後、情話や怪談話を得意とした田中貢太郎らと「文壇圏外で勝手気ままに物を書いている」メンバーを集めて「石蕗会」を結成する。

けれども、このときも「随筆家でも芸術家である」と読売新聞紙上で揶揄されている。

 

村松友視が『海』の編集者を務めるのは、梢風のこの出来事からおよそ50年後になる。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

『月刊朝礼』「村松友視」(コミニケ出版)

村松友視糸井重里「1000円の消しゴムの男。」(2009/ほぼ日刊イトイ新聞

村松友視『こんな男に会ったかい 男稼業・私の選んだベスト9 村松友視対談集』1984/日本文芸社

村松梢風『梢風物語』(1919/天佑社)

杉森久英『滝田樗陰 ある編集者の生涯』(1966/中公新書

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

”活字の端っこ”から文壇を通り越す

<第3章 メディア化する写真家と非文壇の形成>

 ---2 非文壇の形成―――ラジオ、テレビ、週刊誌、都市

1970年、三島由紀夫が割腹自殺した。

翌年、写真家・林忠彦は、表紙ポートレイトにたばこをくゆらす松本清張川端康成の題字『日本の作家 林忠彦写真集』(主婦と生活社)を刊行。

文芸家たちが振り返られる。

後発の写真家たちは、写真雑誌という媒体からはみ出し始めていたが、文芸家でも、石原慎太郎三島由紀夫といった文壇から活躍の場を広げていく者とは違った、独自の取り組みを行っていく者が登場する。

①―――放送作家・週刊誌コラムニストから直木賞受賞者 歌手へ  野坂昭如

 

野坂昭如は、養父の元で育てられるなか、神戸大空襲を経験。

ぽん引き、泥棒といった暮らしを送る。

早稲田大学へ入学するも、仕送りを使い果たし、さまざまな職に就く。

大学在学中、ラジオ、テレビの世界で主に作曲家として活躍した三木鶏郎の制作集団「冗談音楽」で働き(先輩には永六輔)、CMソングやテレビ番組内での作詞(おもちゃのチャチャチャなど)、テレビ台本を手がけ、売れっ子放送作家となる。

その頃、シャンソン歌手を目指しクロード・野坂としてや、野末陳平と漫才も行い、舞台にも立った。

 

週刊誌創刊ブームを迎えた時代、野坂は、『週刊コウロン』(中央公論社)の編集者・水口義朗(のちにテレビ朝日系のワイドショー『こんにちは2 時』のキャスターへ転身)から放送業界の内輪話を教えて欲しいとの電話を受ける。

以降、『週刊コウロン』『週刊現代』『週刊文春』など当時創刊されて間もない週刊誌にコラムやルポを発表していく。

戦前からの歴史ある『婦人画報』ではTV評論も行う。

連載がたまると、『週刊コウロン』の連載をまとめたコラム集『現代野郎入門』(久保書店)、『週刊現代』の連載を元にした編著『プレイボーイ入門』(荒地出版社)を出版。

プレイボーイ評論家としてテレビ出演も行っている(1962)。

 

このように、テレビ、週刊誌といった当時のニューメディアを活動の拠点とした一人が、野坂だった。

 

そんな野坂と文壇との接点となったのが、エロ映画になる。

文芸家たちの集まる新宿のバーで生まれたつながりから、野坂の自宅で上映会を行った。吉行淳之介遠藤周作阿川弘之近藤啓太郎杉森久英中村真一郎丸谷才一梶山季之、村山健一らが集まった。

同じ頃、石原・開高・大江らの「若い日本の会」に対抗し、「活字の端っこ」にいる人たちの交流の場も設けた。

ミステリー雑誌『ヒッチコックマガジン』(宝石社)の編集長・中原弓彦小林信彦)、スポーツ誌の芸能記者、週刊誌記者、シナリオライターらを集めた。

 

野坂は、33歳のとき、本格的に小説に取りかかる。

水口の手引きで、すでにエッセイを発表していた中間小説雑誌『小説中央公論』に、最初の小説となる「エロ事師たち」を連載する(1963)。

大阪を舞台にエロを生業として生きる男の人生を、大阪弁で描いた。

 

この時期、野坂は、直木賞受賞者・柴田錬三郎に、『週刊文春』誌上で、“TVの寄生虫”と批判されている。

小説家から放送作家へと転身した放送作家協会会長・大林清から、協会の除名も公言される。

結果、野坂を含む5人が同時に退会したが(永六輔前田武彦野末陳平・城雄介)、野坂は「小説で生きていく」と強く思ったという。

 

『小説中央公論』は半年ほどで休刊し、「エロ事師たち」は当初話題にならなかった。

けれども、三島由紀夫が『新潮』で、吉行淳之介が文芸雑誌『文藝』(1933年改造社創刊。のち河出書房新社が復刊)で賞賛すると注目されることになる。

結果、加筆したのち、講談社から単行本化されることとなった(1966)。

帯文を三島由紀夫吉行淳之介が寄せた。

刊行は、『「エロ事師たち」より 人類学入門』のタイトルとなった映画化に合わされた。

主演は小沢昭一、監督は今村昌平、配給を日活が手がけ、独立プロ運動が高まるなかで、今村は日活を辞め、この映画が今村プロ第1作にもなった。

 

エロ事師たち』は、「The Pornographers」のタイトルでアメリカのクノップス社より刊行される(1968)。

三島由紀夫の自宅パーティで、クノップス社のハロルド・シュトラウスを紹介されたことがきっかけだった。

修道士マイケル・ギャラガーが英訳した。

 

その後、野坂は、『オール讀物』(1930年創刊/文藝春秋)、『小説新潮』(1947年創刊/新潮社)、『小説現代』(1963年創刊/講談社)の当時中間小説誌の御三家と称された雑誌へ執筆の場を移行する。

 

エロ事師たち』刊行の翌年、野坂は、神戸大空襲下の懸命に生きる兄と妹を描いた「火垂るの墓」(『オール讀物』掲載)と、敗戦を体験した男を通してアメリカへ対するコンプレックスを描いた「アメリカひじき」(『別冊文藝春秋』掲載)を発表。直木賞を受賞した(1968)。

単行本の発行は、2作ともに掲載元だった文藝春秋が行った(1969)。

受賞時、野坂は、毎日新聞のインタビューでの何派か?と聞かれ、“無頼派”ならぬ“戦後闇市派”ととっさに答えている。

この年、毎日新聞社は、『新戦後派』を出版。

野坂昭如永六輔寺山修司野末陳平の4名を同列に並べた。

野坂、永、野末は、三木鶏郎の制作集団「冗談音楽」出身になる。

 

野坂は、直木賞受賞者となってみると、小説以外への関心が高まったという。

余興で歌ったことがきっかけで、音楽活動を再開することになる。

前年、日本コロムビア内の洋楽レーベル、CBSコロムビアから離れて設立されたばかりの新興会社CBSソニーから声がかかった。

黒人霊歌のカバーと長崎県の子守唄を歌った「ポー・ボーイ/松浦の子守唄」(1969)でレコードデビューする(ジャケットデザイン横尾忠則)。

“歌う直木賞作家”で全国のキャバレーを回り、日比谷公会堂でリサイタルも開催した(1971)。

 

また、吉行淳之介の冗談から始まった月刊雑誌『面白半分』の編集長(1972)やCMに出演(山陽商会、サントリーなど。1974~)。

月刊雑誌『話の特集』(1965年創刊)の編集長で菊池寛の秘書を務めた父を持つ矢崎泰久の呼びかけで永六輔小沢昭一とで中年御三家を名乗って武道館コンサート(1974)を行うなど、非文壇的な活動を拡張させた。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

文藝別冊『野坂昭如 焼跡闇市ノー・リターン』(2016/河出書房新社

野坂昭如『文壇』(2002/文藝春秋

野坂昭如『マスコミ漂流記』(2015/幻戯書房

野坂昭如『絶筆』(2016/新潮社)

矢崎泰久『人生は喜劇だ 知られざる作家の素顔』(2013/飛鳥新社

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

戦後の"マルチ"メディアブームが写真家をキャラ化する 

<第3章 メディア化する写真家と非文壇の形成>

 ---1 表舞台に立つ写真家続々と―――キャラ化・私化

④―――小説・俳優の依頼を受けた写真家・加納典明

 

もちろん、『カメラ毎日』(毎日新聞社)以外の雑誌メディアからも写真家は登場する。

その一人に加納典明がいる。

 

名古屋で育った加納は、高校卒業後、商業写真家・小川藤一の元でカメラを学ぶ。

その後、東京に出て、『CAMERA』(アルス)で土門拳が審査を務める月例賞の常連だった写真家・杵島隆のスタジオで働く。

そして21歳のとき、フリーとなる。

 

転機となったのは、『平凡パンチ』(1964年創刊)の編集者・西木正明(のち直木賞受賞者)との出会いだった。

この時期、平凡出版は、東宝と映画『パンチ野郎』(1966/監督・岩内克己)を製作(藤本真澄)し、主役を若手カメラマン(黒沢年雄)にするなどカメラマンを若者の憧れの職業に仕立てている。

 

誌面でヌード撮影を担当した加納は、誌面企画で編集者・石川次郎と渡米する。

このとき現地で撮影した写真を元にした個展『FUCK』(大日本印刷DICビル画廊・東京)でその名が知られることとなった(1969)。

ニューヨークで撮影したさまざまな性描写を撮らえた展示写真は、警察からクレームを受ける内容だった。

この個展には、『カメラ毎日』の編集者・山岸章二も顔を出し、誌面で取り上げている。

 

その後、日本テレビ系の深夜のワイドショー『11PM』への出演(1970)も行った加納は、創刊されたばかりの文芸雑誌『海』(1969年創刊/中央公論社)の編集長・吉田好男から小説の依頼を受ける。

 

当時のことを加納はこう記している。

 

今は無き中央公論社の純文学月刊誌「海」の編集長 吉田好男が、映像を仕事にしている人間に小説を書かしてみようと云う考えが有ったらしく、後に私がナジャ(*引用者注:新宿のバー)で酔っぱらっている最中に小説を書いてみないかと言われ、どんな話しが欲しいのと聞くと、梶山季之川上宗薫的な物という、酔っぱらってる私は、ああ ヤリ話しね、いいよと答えていた。

海誌・目次に寄ると、新鋭カメラマンの第一作、文字で現像したポルノの奧に潜む華麗なる空しさ「オ××コ」を書く事になる。

 

加納の小説は、新宿を特集した臨時増刊号に掲載された(1971)。

掲載された小説は、400字詰め原稿用紙50枚程度で行間も字間もなく、それが賛否を呼んだという。

 

その後、加納は、清水邦夫蜷川幸雄演劇を中心とした戯曲家)と田原総一郎東京12チャンネル(現・テレビ東京)のテレビディレクター*当時)の依頼を受け、映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』(配給ATG)に、準主役として出演(1971)。

学生運動の闘士・秋田明大日本大学全学共闘会議の議長)に依頼するも、断られた役だった。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

加納典明公式サイト「典明記」

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな