戦後の"コピー機"メディアブームが写真家をキャラ化する 

<第3章 メディア化する写真家と非文壇の形成>

---1 表舞台に立つ写真家続々と―――キャラ化・私化

③―――ゼロックスコピーで私の媒体を造った写真家・荒木経惟

 

荒木経惟は、高校時代より独学で写真撮影を行い、写真雑誌『日本カメラ』(1950年創刊/日本カメラ社)で上位入選者だった。

当時、写真を学べる日大・東写短・千葉大の3つの大学のうち、学費の安い国立の千葉大学工学部・写真印刷工学科を選んだ。

 

入学すると化学技術の場だったが、卒業後、広告代理店・電通の写真部へ入社し、広告写真を手がける。

在職中の24歳の年、大学の卒業制作「さっちん」で第1回太陽賞を受賞する(1964)。

平凡社がグラフ誌『太陽』の発刊を記念して創設した賞だった。

審査員には、木村伊兵衛、伊奈信男、羽仁進らの写真関係者だけでなく、日本画家の東山魁夷、文芸評論の中島健蔵伊藤整らが名を連ねた。

 

その後、『ゼロックス写真帖』を制作する(1970)。

電通藤岡和賀夫のコピーによる「モーレツからビューティフルへ」のCM広告が打たれていた富士ゼロックスのコピー機を使い、撮影した写真をコピー(当時、試作品が電通にきたばかりだったという)。

それらを冊子とした限定70部の私家版の写真集だった。

 

その後も、「複写集団ゲリバラ」を結成し、私家版の写真集『水着のヤングレディたち』を出した(1971)。

 

荒木は、当時の状況を次のように述べている。

 

その頃、カメラ雑誌に載せてもらうには頭さげにいかなくちゃならなかった。

山岸天皇(『カメラ毎日』編集者の山岸章二)がおれを通さなきゃ載せないっていう時代だから。

そういうのおれ、あんまり好きじゃないんだよね。『プロヴォーグ』(*引用者注:中平卓馬高梨豊森山大道らが1968年に創刊した写真同人誌)はいいなって思ってたんだけど、電通にいるんじゃだめだという感じがあるじゃない。

広告会社にいるやつが作品とか作家ぽいことやる資格はないから。

だから六〇年代はカッカしてたね。みんな元気よくやってるのに、冷蔵庫の写真なんか撮らされていたんだから。

 

荒木は完成した写真集を、永六輔小沢昭一寺山修司赤瀬川原平など著名人に送っている。

人選は『週刊サンケイ』(産業経済新聞社)の当時の編集長・下川耿史が行った。

 

さらにその後、荒木は、代表作のひとつとなった、妻との日常生活を赤裸々に撮らえた写真集『センチメンタルな旅』を限定1000部で自費出版(1971)。

紀伊国屋書店自費出版コーナーに置いてもらうため、自ら、社長の田辺茂一に頼みに行っている。

 

「さっちん」では下町で遊び回る子供たちを、『ゼロックス写真帖』ではスナップ的に撮り続けた身近な題材を、「複写集団ゲリバラ」では便所や水着を来た素人女性を、とすべてアンチコマーシャルから出発した内容だった。

『センチメンタルな旅』が私小説といえる内容になったのは、当然の結果だった。

 

『センチメンタルな旅』を発表した翌年、写真家として著名になり始めた荒木は、電通から進退を問われ、退社を選んだ。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

大竹昭子『眼の狩人 戦後写真家たちが描いた軌跡』(1994/新潮社)

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

戦後の"テレビ"メディアブームが写真家をキャラ化する 

<第3章 メディア化する写真家と非文壇の形成>

---1 表舞台に立つ写真家続々と―――キャラ化・私化

②―――お茶の間の人気者になった写真家・立木義浩

 

立木義浩は、徳島県出身。

立木写真館の息子として生まれた。

東京写真短期大学(現・東京工芸大学)で写真を学んだのち、できたばかりの企画・制作会社アド・センターにカメラマンとして入社。

週刊誌『週刊平凡』(1959年創刊)、男性向け週刊誌『平凡パンチ』(1964年創刊)の写真も手がける(ともに平凡出版*現・マガジンハウス)。

 

広告写真も手がける日々のなかで、写真家として名前が大きくクローズアップされたのは、『カメラ毎日』に掲載された「舌出し天使」だった(1965)。

27歳の年になる。

付録というかたちだったとはいえ、山岸の独断によって若手に56ページを割いたという独断と編集方針の独自性(写真構成・和田誠/詩・寺山修司/解説・草森紳一*「舌出し天使」というタイトルは安岡章太郎の同名小説から草森が命名)もあったが、ハーフモデルたちがカメラと戯れる何気ないショット、舌を出した写真を雪のなかで背負った少女の構図が強い印象を残した。

この年、立木は、日本写真批評家協会新人賞を受賞している。

 

その後しばらくしてフリーとなった立木は、フジテレビ系列の深夜番組『ナイトショー』へ出演(1969)。

「立木コーナー」と題した10分間のコーナーで、女性のヌード写真を手に、お茶の間へ写真論を語った。

 

立木は、撮る側から撮られる側になった。

立木は、街で声をかけられるようになり、木村伊兵衛でも写真家のあいだでのみ知られる人だったことからすると大きな変化だったと述べている。

 

また、立木によれば、毎週、初対面のモデルをヌード撮影したこのコーナーによって、ヌード撮影を身近なものにしたという。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

立木義浩『コミュニケーション』(2003/集英社インターナショナル

大竹昭子『目玉の人 草森紳一と写真』(2009-11)

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

戦後の"漫画"メディアブームが写真家をキャラ化する

<第3章 メディア化する写真家と非文壇の形成>

---1 表舞台に立つ写真家続々と―――キャラ化・私化

山岸章二が編集部員、編集長時代の『カメラ毎日』(毎日新聞社)に反発した写真家たちは、少なくなかった。

山岸の部下だった西井一夫は、「彼は、写真家とは仕事を超えて付き合い、彼らの私生活にまで踏み込んで関係しようとするところがあり、これに対してはこれを嫌う者とそうでない者の差が極端に出た」と語る。

その影響力から、山岸とは距離をとり、写真家自身で居場所を作っていくことにもなった。

これまでふれてきた、木村伊兵衛土門拳、田村茂、高梨豊細江英公とは異なる時期へと入っていく。

①―――漫画になった写真家・篠山紀信

 

篠山紀信は、日本大学芸術学部・写真学科と東京綜合写真専門学校で平行して学ぶ。

日本大学在学中、広告専門制作会社・ライトパブリシティの写真部に入社し、次々と賞を受賞する。

ライトパブリシティは、各企業のデザイン部か広告代理店の社内制作部が広告デザインを手がけていた時代、日本で初めての広告専門の制作会社だった(1952年設立)。

 

篠山は、第1回日本広告写真家協会展・公募部門で写真家協会APA賞(1961/「ミステリーのためのポスター試作」)、ADC銀賞(1965)、日本写真批評家協会新人賞(1966/「偏執狂的習作」・『カメラ毎日』連載「アド・バルーン」)と受賞し、フリーとなった(1968)。

28歳の年になる。

この頃、三島由紀夫の「聖セバスチャン殉教図絵」(澁澤龍彦責任編集の天声出版の雑誌『血と薔薇』掲載)と未刊となった三島の写真集『男の死』(ADは日本デザインセンター出身の横尾忠則)も撮影している。

 

『カメラ毎日』とは、その後も、山岸章二編・三島由紀夫序文、カラーとモノクロ写真が混在した『篠山紀信と28人の女たち』(1968/毎日新聞社)、アメリカのカリフォル州にある世界最大級の乾燥地帯デスヴァレーで3人のヌードモデルを撮影した「死の谷」を発表するなど関係が深かった。

のちに『NUDE』(1970/毎日新聞社)に収録された「死の谷」では山岸は現地に同行するなど関係は密だったというが、西井によれば、1970年代に入り、篠山は山岸との縁を切ったという。

 

入れ替わるように篠山は、男性向け週刊誌『週刊プレイボーイ』(1966年創刊)のグラビア、芸能雑誌『明星』の表紙(1971-81)などを手がけていく(ともに集英社)。

篠山といえば、あのもじゃもじゃの髪型がイメージされるが、フリー後、赤塚不二夫の漫画『天才バカボン』(1967-78連載)に、決定的瞬間を求める「篠山紀信君」として描かれる(1973)。

篠山は、撮る側から描かれる側になった。

 

その3年後、篠山は、国際的な美術展、ヴェネチア・ビエンナーレの出品作家として選出される(1976)。

日本を代表する写真家として、日本の家を撮影した写真を展示した(日本館コミッショナー・中原祐介、会場構成・磯崎新)。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

西井一夫『写真編集者 山岸章二へのオマージュ』(2002/窓社)

シノヤマネットSalon

『天才バカボン』(1967-78連載/講談社

和田誠『銀座界隈ドキドキの日々』(1993/文藝春秋

水戸芸術館現代美術センター企画『12人の挑戦 大観から日比野まで』(2002/茨城新聞社

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

被写体でもあり写真家でもあり

<第2章 顔をさらすから身をさらすへ>

---4 ポートレイトは、広告写真か? 芸術写真か?

④―――細江英公以前  三島由紀夫をカメラに収めた元俳優の写真家・矢頭保

 

写真家・細江英公よりも先に、モデルとしての三島由紀夫の撮影を行っていた写真家がいる。

 

矢頭保は、宝塚歌劇団が男女混合劇を試みようとしたものの、実現には至らなかった男子専科に所属した経験を持つ。

その後、日活で、高田保として俳優活動を行った。

その肉体美から“和製ターザン”の異名をとった。

 

矢頭は、三島の『潮騒』『仮面の告白』の翻訳者メレディス・ウェザビーの庇護を受け、メレディスと生活をともにする。

その際、写真に興味を持ち、独学で、三島を含むボディビルダーの写真を多数撮影していくことになった。

 

矢頭は、3冊のモノクロ写真集を残している。

メレディスの自社出版となった『体道~日本のボディビルダーたち』(1966/ウェザヒル出版社)、『裸祭り』(1969/美術出版社)、『OTOKO: Photo-Studies of the Young Japanese Male』(1972/Rho-Delta Press)になる。

 

『体道』『裸祭り』の序文は、三島が寄せた。

三島自身のポートレイトも含まれた『体道』で、三島は、矢頭の写真について、次のように記した。

 

人間の筋肉に関する精密な実践的知識がなくては、ボディ・ビルダーの写真作品を、写真芸術にまで高めることはできない。

その久しい待望が、矢頭保氏の出現によって充たされたのである。

なぜなら、矢頭氏は、氏自身ボディ・ビルダーであり、筋肉の精華の何たるかを知り、その微妙な整理を知悉し、一方、写真家として、光りと影が生み出す形象の無限のニュアンスを知り、……かくてこの写真集に見られるように、日本ではじめて、男性の筋肉の、力、均整美、光輝、憂愁、そして詩のすべてを表現することに成功したからである。

 

俳優出身の矢頭は、写真家でもあり、被写体でもあった。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

辻則彦『男たちの宝塚』(2004/神戸新聞総合出版センター)

『夜想 3号 耽美』(2006/ペヨトル工房

「5ELECTION - The International Coolhunting Magazine」(http://www.5election.com/

三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集 第35巻』(2003/新潮社)

伊藤文『『薔薇族』の人びと その素顔と舞台』(2006/河出書房新社

 

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高騰続ける1冊の文芸家の写真集

<第2章 顔をさらすから身をさらすへ>

---4 ポートレイトは、広告写真か? 芸術写真か?

③―――三島由紀夫をオブジェにした写真家・細江英公薔薇刑

 

1961年、一人の人気文芸家が、オブジェとなった。

三島由紀夫になる。

 

三島は、フリーの写真家・細江英公の写真集『おとこと女』(1961/カメラアート社)に収められた舞踏家・土方巽をみて、評論集『美の襲撃』(1961/講談社)用の口絵写真を1枚、細江に依頼する。

そもそも『おとこと女』は、三島の小説『禁色』(第1部・1951 第2部・1953/新潮社)を土方が舞踏にしたものを細江が見たことがきっかけで撮り始めたものだった。

すべては三島がきっかけだった。

 

三島の依頼に、細江は、裸の三島を寝かせ、ゴムホースでぐるぐる巻きにし、寝転んだ三島を頭から撮影して応えた(このときゴムホースの助手を若き森山大道が行っている)。

 

そんな姿にされても三島は嫌な顔をせず、写真の出来栄えを気に入り、三島の発案で一冊の写真集にまで発展していくことになる。

写真集が発行される途中で、銀座にある百貨店・松屋で開かれた展覧会にも出品されている。

三島はそのときのことをこう述べている。

 

氏が、展覧会に出す連作を撮らしてくれ、というので、私は、それが明らかに商業的なものでない、氏の本当の仕事にしようとしていることを確かめて、快諾した。

 

制作にあたり、細江が考えたことは次のようなものだった。

 

これはやはり三島さんの今までのイメージ、作家・三島由紀夫ではなく、ダンサー・三島由紀夫のようなものをイメージしようと思いました。

(引用者中略)私だけの考えで撮るところの、写真の写実性というような描写の力をふんだんに使った、一瞬が永遠につながる、そういう三島由紀夫像を作ろう。

そして、これは私の責任で作るものだから、三島さんが喜ばなくっても、もう仕方が無いな、と思ったのです。

 

こうした考えのもと、三島の裸体をもちい、さまざまなオブジェと合成するなど、細江は幻想的なモノクロ写真に仕上げた。

 

最初の撮影を始めてから2年後、『薔薇刑』と名づけられた写真集となった(1963)。

発行は、当時、文芸とは遠かった集英社が行っている。

細江は、この作品で、日本写真批評家協会作家賞を受賞した。

細江30歳の年になる。

 

東京写真短期大学(現・東京工芸大学)卒業以後、フリーランスの写真家として常に活動してきた細江は、広告写真について、次のように述べている。

細江の写真論でもある。

 

広告写真というのは、技術的に相当高いものがあります。

写真家としては広告写真の技術的側面に非常に感心しました。

しかしここでも言えることは、美しいものや楽しそうなものを見れば「きれいだな、すごいな」とは思いますが、やはり「感心」はしても「感動」はしないわけです。

(引用者中略)一言でいえば、私は「感心する写真」ではなくて「感動する写真」を選んだといえるかもしれません。

 

薔薇刑』は、刊行以来、三島の陸上自衛隊で演説後の割腹自殺(1970)も影響し、海外でも話題となっており、これまで数度復刻されている。

復刻にあたり、デザインは、杉浦康平から、横尾忠則粟津潔と変更されている。

現在もその古書は市場のなかで、値段を上げ続けている。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

日本記号学『写真、その語りにくさを超えて』(2008/慶応義塾大学出版会)

三島由紀夫「『薔薇刑』体験記」『私の遍歴時代』(1964/講談社

細江英公『薔薇刑』(1963/集英社

細江英公『ざっくばらんに話そう 私の写真観』(2005/窓社)

 

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有名人ポートレイトへの写真家の不満

<第2章 顔をさらすから身をさらすへ>

---4 ポートレイトは、広告写真か? 芸術写真か?

②―――著名芸能人を撮らえた写真家・高梨豊の「オツカレサマ」

 

写真家・高梨豊は、山岸章二編集時代の『カメラ毎日』(毎日新聞社)から、著名人の撮影の依頼を受ける。

 

高梨は、日本大学芸術学部・写真学科~桑沢デザイン研究所で学んだのち、日本デザインセンターに所属し、広告写真の撮影を生業としていた。

 

『カメラ毎日』からの依頼は、高梨にとって初めての人物写真となった。

 

高梨は、坂本九渥美清青島幸男(当時放送作家・のちに直木三十五賞受賞者)、ザ・ピーナッツ長谷川一夫など全12組、舞台・映画・テレビで当時人気を博していた芸能人を写真スタジオに招き、モノクロ写真で撮らえた(1963)。

1年間にわたって『カメラ毎日』に掲載されたこれらの写真は、「オツカレサマ」と題された。

時は東京オリンピックを翌年に控え、高度経済成長に日本中が沸く、右肩上がりの時代だった。

 

実現はしなかったが、美空ひばりの撮影案から、当時、高梨がこの撮影で何を考えていたかが伺える。

 

私が人物写真を撮りはじめることになった「オツカレサマ」では、ムヅカシイお写真のようでと断わられた。

母上と二人投げテープでぐるぐる巻きにして双児のように写そうと思っていた私のプランを見抜かれたようで、その慧眼に感服した。

 

「オツカレサマ」で高梨は、翌年、日本写真批評家協会新人賞を受賞する(審査員は桑原甲子雄ら)。

29歳の年だった。

 

けれども、高梨にとって「オツカレサマ」が評価されることは不満だったという。

「「良い写真」なんていうものはない」と考える山岸の戦略に対する回答とも受け取れる言葉を残している。

 

あんなもので賞をもらって腹立ったんですよね。

だから自分はこんなんでないというのを見せたいという気持ちがあってはじめたんです。

 

そこで高梨は、『カメラ毎日』に直談判し、「東京人」を始める。

東京の街で暮らす匿名の人たちを、中心を据えず、モノクロ写真で群像的に撮らえたシリーズだった。

 

その後の高梨は、写真家・中平卓馬らと、“思想のための挑発的資料”を掲げた写真同人誌『provoke』を創刊(1968/全3号)。

反広告的な流れへと向かい、やがてフリーに(1970)。

時間は飛ぶが、美術家・赤瀬川原平とともに「ライカ同盟」も結成した(1992)。

 

「オツカレサマ」の写真は、高梨の写真集『面目躍如』(1990/平凡社)に収録されたのち、東京国立近代美術館で開催された「高梨豊 光のフィールドノート」展の際(2009)、東京国立近代美術館所蔵に寄贈。

美術館入りした。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

高梨豊『面目躍如 人物写真クロニクル 1964~1989』(1990/平凡社

大竹昭子『眼の狩人 戦後写真家たちが描いた軌跡』(1994/新潮社)

西井一夫『写真編集者 山岸章二へのオマージュ』(2002/窓社)

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

広告写真家の時代がやってきた

<第2章 顔をさらすから身をさらすへ>

---4 ポートレイトは、広告写真か? 芸術写真か?

すでに出版社系の週刊誌創刊ブームについてふれたが、そのブームの直前、新聞社から1冊の写真雑誌が創刊されている。

この写真雑誌を拠点に、多くの新人写真家が活躍していく。

①―――後発『カメラ毎日』(1954年創刊)の編集者・山岸章二の戦略

 

写真月刊誌『カメラ毎日』は、毎日新聞社が創刊した(1954-85)。

ライバル紙・朝日新聞社が発行する『アサヒカメラ』(1926年創刊)から後れること30年近くになる。

 

『カメラ毎日』は、山岸章二が編集部員、編集長を務めた60年代初頭から70年代初頭に大きく発展した。

山岸は、元々カメラマンとして毎日新聞社に入社したが、その後、編集者へ転じた。

 

写真雑誌として後発の『カメラ毎日』が発展していく背景には、山岸が広告写真家を徹底的に起用していったことがある。

 

日本デザインセンターに所属していた高梨豊、第一宣伝社~日本デザインセンターに所属していた深瀬昌久資生堂のポスターを手がけていた横須賀功光、アド・センター所属だった立木義浩、ライトパブリィティ所属だった篠山紀信らが誌面を飾った。

みな、有名になっていく前のことだった。

 

山岸の部下で、のちに『カメラ毎日』の編集長を務める西井一夫は、当時をこう語る。

 

これまでの写真の世界というか……文壇の代わりに昔の言葉で言うと写壇とか言ってたんですけど(笑)……そういう構造というのをとにかく壊してしまおうという意識ははっきりと持っていた人のようですね。

だから、土門拳が提唱したリアリズム写真という一つの集団的ヒエラルキーがあった。

もう一個は後に二科の写真運動になっていくもの。

秋山庄太郎とか林忠彦を筆頭にする、いわゆるキレイ写真ですね。

そういう大きく二つの流派みたいのがあったんです。

『カメラ毎日』自体にもこういう二つがコンテスト制度というものを通して共存していたんだけど、どっちも壊しちゃおうというのが山岸さんの思っていたことみたいですね。

「良い写真」なんていうものはないんだ、とよく言っていました。

そこでどっちでもなくて当時非常に力を感じさせたものがコマーシャルの分野だったんじゃないですか。

で、とりあえずそこからはじめるということで、六〇年代の初めというのはまず若いコマーシャル写真家を多用して、彼らの撮った写真を見せるということでやっていったんだろう、と思うんです。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

西井一夫『写真編集者 山岸章二へのオマージュ』(2002/窓社)

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな