集英社発 小説+漫画⇒文芸・イラスト・匿名
<第5章 そして作家が消えた>
---1 ポートレイトも消えた―――覆面作家続々と
②―――『ジャンプノベル』その後 5人の乙一
『ジャンプノベル』以後は、何が起こったのか?
文芸の流れ、イラストの流れ、そして、匿名の流れになる。
村山由佳は、ジャンプ ジェイブックスから、歴史ある文芸へと展開していく。
ジャンプ ジェイブックスからは、『ジェンプノベル』に掲載した『もう一度デジャ・ヴ』『おいしいコーヒーの入れ方』(ともにイラスト志田正重)シリーズ(1993)を刊行。
「春妃〜デッサン」(単行本時『天使の卵 エンジェルス・エッグ』)は、小説すばる新人賞(主催・集英社)を受賞した(1993)。
翌年、『天使の卵』は、NHK-FM『青春アドベンチャー』でラジオドラマ化された。
村山は、2000年頃まで、集英社を主な拠点したのち、『別冊文藝春秋』に連載した「星々の舟」で直木三十五賞を受賞した(2003/文藝春秋)。
もう一つの流れを見よう。
『ジャンプノベル』廃刊にあたり、ジャンプ小説・ノンフィクション大賞も終了した。
以後、現在のジャンプ小説大賞~ジャンプ小説新人賞に。
このとき、イラストレーター部門が誕生した(しかし2013年廃止)。
三つの目の流れは、乙一になる。
乙は、「夏と花火と私の死体」でジャンプ小説・ノンフィクション大賞を受賞した(1996)。
出版時は17才だった。
その後、村山と同じく2000年頃まで、ジャンプ ジェイブックスと集英社の文芸で活動するが、角川書店、幻冬舎、講談社などへ展開していく。
同時に乙は、“山白朝子”・“中田永一”という別名義による小説を発表。
講談社ノベルス・電撃文庫(KADOKAWA アスキー・メディアワークス)・メディアワークス文庫(KADOKAWA アスキー・メディアワークス)をまたにかける覆面作家“越前魔太郎”の一人としても活動する。
さらに本名の安達寛高で、学生時代から活動していた自主映画の監督作品も発表している。
当初、“山白朝子”・“中田永一”の正体は不明だったが、中田永一名義の『くちびるに歌』(小学館)が小学館児童出版文化賞に選ばれた際、「出版社が宣伝しにくそうで申し訳ない」という理由から自ら公表。
乙が贈呈式に出席した(2012)。
乙は、覆面作家を続けた理由について、「いろいろ理由はあるのですが、一つは心のバランスをとるため。一から出直したいという気持ちがあったから」「過大評価されているようで、持ち上げられている感じがよくないと思った。誰も知らないところで、しばらく隠れようということでした」と述べている。
その後、乙一・中田永一・山白朝子・越前魔太郎・作品解説を安達寛高によるアンソロジー『メアリー・スーを殺して 幻夢コレクション』(2016/朝日新聞出版)を発表している。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
「乙一さん:人気作家、小学館児童出版文化賞贈呈式で別名義の活動認める」(毎日新聞 2012年11月20日 東京夕刊)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな
集英社発 小説+漫画
<第5章 そして作家が消えた>
---1 ポートレイトも消えた―――覆面作家続々と
①―――集英社発の少年漫画誌『週刊少年ジャンプ』から文芸へ「小説+漫画」
1991年、『ジャンプノベル』が創刊される。
春と夏、年3回の発行で、『週刊少年ジャンプ』の特別編集増刊だった。
このとき、ジャンプ小説・ノンフィクション大賞が創設された。
力点は、ノンフィクションにあった。
この年、本家『週刊少年ジャンプ』は、『週刊少年マガジン』(講談社)『週刊少年サンデー』(小学館)『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)の週刊少年漫画誌を突き放し、発行部数が600万部を超える。
連載は、「ドラゴンボール」(鳥山明)「シティーハンター」(北条司)「ジョジョの奇妙な冒険」(荒木飛呂彦)「ろくでなしBLUES」(森田まさのり)「まじかる☆タルるートくん」(江川達也)「電影少女」(桂正和)「SLAM DUNK」(井上雄彦)などの人気作が飾っている。
それでも、なぜ、小説だったのか?
すでに『月刊カドカワ』でもふれたが、表方の異ジャンルから文芸の世界へと入ってくる動きは、集英社でもあった。
ロックバンドのECHOES(CBS・ソニー)でデビューしていた辻仁成が、すばる文学賞(主催・集英社)を受賞(1989)。
続いて、戯曲家で演出家・唐十郎の息子で、日本大学・芸術学部在学中に映画俳優として本格的にデビューしていた、俳優・大鶴義丹が、同じくすばる文学賞を受賞している(1990)。
また、少し先行して、文芸雑誌『すばる』(1970年創刊)に対してエンターテインメント寄りの文芸雑誌『小説すばる』を創刊(1987)。
(新潮社では、三島由紀夫賞と山本周五郎賞が同時に創設された(1987))
“小説”は、相対的に地位が低下し、再確認の時期にあった。
「ジャンプ」の方でも、鳥山明「Dr.スランプ」(1980-84)「ドラゴンボール」(1984年連載開始)の大ヒットにより、編集部の鳥嶋和彦の元で、テレビアニメ化、テレビゲーム(鳥山明がキャラクターデザインを担当。シナリオをゲームライターの堀井雄二が手がけた『ドラゴンクエスト』)などの複合的な展開が形作られていた。
“集英社”をイメージすべく、人名を冠した主催賞を見ておこう。
手塚賞(1971年創設)、赤塚賞(1974年創設)、柴田錬三郎賞(1988年創設)、開高健ノンフィクション賞(2003年創設)、渡辺淳一文学賞(2015年創設)などになる。
こうした社風の元に、『ジャンプノベル』もある。
『ジャンプノベル』の創刊号を見よう。
表紙には、キャッチコピー「小説+漫画=未体験快感」と記された。
その誌面は、イラスト化されたアーノルド・シュワルツェネッガーが表紙。
ビートたけしと秋本治(代表作漫画「こちら葛飾区亀有公演前派出所」)の対談。
漫画「電影少女」「BASTARD!!」のノベライズ(富田祐弘、岸間信明のアニメーション脚本家が担当)。
小説からは、芥川龍之介賞受賞者・高橋三千綱の「卒業」、日本推理作家協会賞と吉川英治文学新人賞を『ジャンプノベル』創刊の年に受賞した大沢在昌の「黄龍の耳」、当時報道番組『ニューステーション』(テレビ朝日系列)の旅コーナーに出演し、人気となっていた立松和平の「一人の海」、スポーツ・ジャーナリスト山際淳司「ライオンの夏」の、それぞれ漫画化などだった(幡地英明、原哲夫、岸大武郎、今泉伸二・たけだつとむの漫画家が担当)。
誌面では、ジャンプ小説・ノンフィクション大賞も発表された。
審査員を、立松和平・高橋三千綱・栗本薫の小説家と、「ジャンプ」600万部の時期に立ち会った4代目編集長・後藤広喜が務めた(立松は第1回早稲田文学新人賞受賞。高橋・栗本は早稲田文学部)。
第1回は、大賞を、前野兆治(重雄)「川崎ドリーム 川崎球場に客が来た日」(受賞時38歳。イラスト・塩崎雅哉)と定金伸治「ジハード」(受賞時20歳。イラスト・山根和俊)の2作が受賞。
佳作を、村山由佳「もう一度デジャ・ヴ」(受賞時27歳。イラスト・志田正重)が受賞している。
掲載された「小説+漫画」は、創刊から2年後、ジャンプ ジェイブックスのシリーズ
として出版されていく。
岸間信明『BASTARD!!』(萩原一至)、大沢在昌『黄龍の耳』(原哲夫と鶴岡伸寿)、定金伸治『ジハード』(山根和俊)、山際淳司『北のオオカミ』(今泉伸二)。
外池省二『シティーハンター』(北条司)、高橋三千綱『卒業』(幡地英明)、鳴海丈『完真者真魁』(鶴田洋久)が2ヶ月連続で出た(()はイラスト担当者)。
しかし、本家「ジャンプ」が発行部数のピーク(1995)を終えた4年後、『ジャンプノベル』は、16号で廃刊した(1999)。
このブロックの最後に、講談社の話になるが、梶原一騎にまつわる言葉を引いておきたい。
梶原は、『週刊少年マガジン』(講談社)のヒット漫画の原作者になる。
「巨人の星」「柔道一直線」「あしたのジョー」「タイガーマスク」「キックの鬼」「空手バカ一代」「侍ジャイアンツ」「愛と誠」などがある。
当時の「マガジン」の編集長・牧野武朗は、梶原へ、当時地位の低かったという漫画仕事の依頼にあたり、こう伝えたという(1962)。
少年マンガも今や週単位の時代に突入しました。
この際、原作、原画と徹底した分業システムを取り入れたいと思うのです。
『ジャンプノベル』創刊のおよそ30年前のことだった。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
西村繁男『さらば、わが青春の『少年ジャンプ』』(1998/幻冬舎)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな
文芸冊子に現代美術家が入り込む
<第5章 そして作家が消えた>
---2 写真家も消えた―――美術家であり写真家であり…
②―――現代美術家/写真家・松蔭浩之と元音楽家の芥川賞受賞者
2005年、文芸雑誌『早稲田文学』(早稲田文学会)がリニューアルされる。
同時に、『早稲田文学』の編集者・市川真人の主導によって、フリーペーパー版『WB』が創刊される。
このとき、美術家であり写真家の松蔭浩之が起用された。
松蔭は、篠山紀信に憧れ、写真家を志す。大阪芸術大学・写真学科在学中、森村泰昌の撮影アシスタントを務め、森村のセルフポートレイト写真作品の撮影も担当した。
1990年には、森村に続いて、ヴェネチア・ビエンナーレのアペルト部門に、アートユニット“コンプレッソ・プラスティコ”として選出される。
当時24歳での出品は、世界最年少だったという。
以後、松蔭は、現代美術家としての活動と写真家としての活動を平行して行う。
そのひとつに、デヴィッド・ボウイのアルバム『Heroes』に自身が入り込んだセルフポートレイト写真作品がある。
名画に入り込む森村の弟子所以だろう。
(ボウイの『Heroes』のジャケット撮影は鋤田正義。寺山修司の映画『書を捨てよ、町へ出よう』の撮影監督も務めた鋤田は、70年代初頭にイギリスへわたり、当時台頭してきたグラムロックミュージシャンの撮影に成功。以後、ロック写真家のスタイルを生み出してく)
その後も、松蔭は、ギャラリーで創作楽器などをもちいてコンサートを行うアートロックユニット“ゴージャラス”を結成。
観客の声に反応してロックコンサートのステージ体験が味わえるインスタレーション「STAR」など、ロックをモチーフとした作品を数多く発表している。
松蔭は、『WB』において、写真連載ページを託される。
女性モデルを用いた写真を掲載したのち、文芸家の撮り下ろし企画が始まる。
その最初が、このフリーペーパーで実質の小説家デビューとなった川上未映子だった。短編「感じる専門家 採用試験」(2006)とともに掲載された。
川上は、『WB』に掲載される4年前、音楽家としてすでにビクターエンタテインメントからメジャーデビューを果たしていた。
3枚のCDアルバムを発表し、そのすべてが本人のポートレイトのジャケットとなっている。
「感じる専門家 採用試験」掲載号では、松蔭の撮影による川上のポートレイトが表紙を飾り、紙面内では、野外で撮影された撮り下ろしショットが掲載された。
それから2年後の2008年、川上は、『文學界』に掲載された「乳と卵」で芥川龍之介賞を受賞する。
その後、詩の朗読会で、松蔭はドキュメント写真を担当し、その一枚は本人の公式写真となった。
芥川賞受賞をきっかけに川上を密着撮影したドキュメンタリー番組『情熱大陸』(TBS系)が放送された際、そのポートレイトがもちいられた。
また、『WB』の創刊号では、モブ・ノリオの短編が掲載されている。
モブは、前年に『文學界』に掲載された「介護入門」で芥川賞を受賞。
大阪でスカム・ロックバンドの一員として活躍したのち、小説家としてデビューを果たした。
芥川賞を受賞してから5年後の2009年、モブは、『JOHNNY TOO BAT 内田裕也』(文藝春秋)を発表する。
モブの2作目で、書き下ろしとなる長編小説「ゲットー・ミュージック」とロック・ミュージシャン内田裕也がかつて雑誌で行った対談とを合冊した本だった。
このとき、松蔭がモブの撮り下ろしポートレイトを撮影。
内田裕也の対談サイドも、松蔭が内田のポートレイトを撮り下ろし、ともに表紙を飾っている。
松蔭は、ポートレイトを通してロックのイメージを増幅させた。
このブロックの最後に、その後の『早稲田文学』についてふれておきたい。
『早稲田文学』は、第10次の復刊準備号に掲載した川上未映子「わたくし率イン歯ー、または世界」が芥川賞候補に。
川上の芥川賞受賞後となった復刊1号(2008)では、表紙となった川上を篠山紀信が撮影している。
以後、篠山が表紙とグラビアを手がけていく。
グラビアは不定期刊行から季刊となった際、「Kishin×WB」と称され、編集委員は、東浩紀・角田光代・川上未映子・藤井光・ヤマザキマリ・堀江敏幸・市川真人となった。
そして、松蔭浩之は、『女性自身』(光文社)の新刊紹介ページにて、文芸家のポートレイト撮影を始めている(2011-)。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
モブ・ノリオ『JOHNNY TOO BAD内田裕也』(2009/文藝春秋)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな
写真賞に美術家が入り込む
<第5章 そして作家が消えた>
---2 写真家も消えた―美術家であり写真家であり被写体であり…
1993年度の木村伊兵衛写真賞の最終選考に、一人の美術家が残った。
森村泰昌になる。
審査の対象になったのは、『着せかえ人形第1号』(小学館)だった(木村伊兵衛写真賞は、写真関係者から事前アンケートのなかから候補が選ばれる)。
森村が、西洋の名画に入り込んだセルフポートレイト写真作品やマドンナやマイケル・ジャクソンなどのポップスターに扮したセルフポートレイト写真作品をまとめた写真集だった。
選考委員は、この賞のスタート時のように文芸家はおらず、篠山紀信・高梨豊・長野重一・奈良原一高・藤沢正実(『アサヒカメラ』編集長)と、写真家が中心となって務めた。
森村の写真集は、篠山紀信が強く推すも受賞を逃がす。
篠山は、こう述べている。
はたしてこれを旧来の意味で写真作品といっていいのだろうか。
オリジナルな自己創作物ではない他者の創作物にすり替わるという意味では、従来のアートの側からもこれは異端であり、写真の側からも美術家のコンセプトにただ写真を利用しただけといわれ、どちらの側からもはみ出た作品なのだ。
だが、ぼくはこの一冊にひどく興味をそそられた。
それはただ一点、ならばこの作品は写真以外の表現で成立しただろうか、ということだ。
森村は、京都市立芸術大学で、アメリカのグラフ誌『LIFE』の特派員も務めていた写真家アーネスト・サトウに学んだ。
1985年、ゴッホの自画像に自ら入り込んだセルフポートレイト写真作品を発表。
それから3年後、西洋の名画に入り込んだセルフポートレイト写真作品が、国際的な美術展、ヴェネチア・ビエンナーレの若手部門アペルトに出品されたことで、大きく注目されることになった。
当時の状況について、森村は、「私が出品した88年のアペルトは、現代美術が商品になった先駆けで、日本美術のグローバル化元年でもある」と語る。森村が述べたように、以後、「アゲインスト・ネイチャー」展(1989~91/サンフランシスコ美術館ほか)などによって、日本の現代美術作品が海外で紹介され、欧米の美術市場で取り引きされていくことになる。
この流れのなかに、写真家・荒木経惟も入ってくる。
荒木は、個展「アクト・トーキョー1971-1991」(フォルム・シュタットパルク/オーストリアほか)以降、海外の展覧会への出品が急増していく。
こうした時代背景のなかで、森村の作品は、木村伊兵衛写真賞の対象作品となり、受賞の可能性までもあった。
この年、豊原康久(当時36歳)・佐藤時啓(当時36歳)・森村泰昌(当時42歳)の3名が残ったうえで、どのような選考がなされたかについては、先ほど篠山の言葉にはふれたが、他の選考委員たちの言葉から明確に伺える。
「今回の候補作のなかで、惜しくも賞の選考からは漏れてしまったが、妹尾豊考さんの『大阪環状線―――海まわり』(マリア書房)にも、私は強い感銘をうけた」(長野重一)
「豊原康久氏の『Street』はここ数年のグループ展での仕事の集成と、ひとまずいえるものだ」(高梨豊)
「“佐藤時啓さんはいいですね”と言っても“彼には3年前にあげるべきだった、メルセデス・ベンツに招かれる今となっては…”という声があがる。“じゃー、森村泰昌さんでは…粋な計らいだと伊衛兵さんも喜ぶかも知れませんよ”と一歩跳んでみても、“あれほどポピュラーな人に今さら…”と情けない。(引用者中略)新人とは未知なる世界をひっさげて現れる人のことである。そのような広い意味での輝きを讃えるのか、若者への祝いの花束にとどまるのか」(奈良原一高)
「「新人賞に授与する」とする木村伊衛兵賞の本来の趣旨と、最近の受賞傾向や写真状況についての再検討の必要性が議論されましたが、この点については第20回を迎えるまでの課題とすることにしました」(藤沢正実)
こうしたなかで、この年、豊原康久が木村伊兵衛写真賞を受賞した。
東京の街路で無名の女性たちをモノクロ写真で撮らえた写真集は、選考委員・高梨豊の「東京人」を思い起こさせるだろう。
このとき、篠山は、任期終了を理由に、1988年から務めていた選考委員をしばらく離れることを選んだ。
その森村は、写真評論家の飯沢耕太郎編『日本の写真家101』(2008/新書館)の1人に入り込んでいる。
同じ頃、日本をテーマにした写真作品を作り始め、三島由紀夫が陸上自衛隊を訪れ、自決した際の演説映像にも入り込んだ(2006-)。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
『アサヒカメラ』(1994/朝日新聞出版)
森村泰昌『着せかえ人形第1号』(1994/小学館)
水戸芸術館現代美術センター企画『12人の挑戦 大観から日比野まで』(2002/茨城新聞社)
飯沢耕太郎監修『カラー版 世界の写真史』(2004/美術出版社)
森村泰昌『美術の解剖学講義』(1996/平凡社)
「Clippin JAM」クリエイター・ファイル50 森村泰昌 インタビュー(2011/ジャム・アソシエーツ)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな
モデル小説家を造る
<第5章 そして作家が消えた>
---1 小説家が消えた―――キャラクターから始まる文芸の加速
②―――後発・マガジンハウス発 モデル小説家・椎名桜子の登場
椎名桜子は、少女時代にモデルの経験を持つ。
成城大学在学中の22歳になった、1988年、『家族輪舞曲(ロンド)』(マガジンハウス)で小説家デビューする。
学生時代に書いた80枚の小説が元だったという。
当時、芥川龍之介賞最年少受賞は、丸山健二、石原慎太郎、大江健三郎の23歳であり、22歳には特別な意味があった。
『家族輪舞曲』では、愛人のいる父親とそれを見てみぬふりをする母親とのあいだで暮らす、17歳の少女の心の機微が描かれた。
単行本の表紙は、桜自身のロングショットのモノクロポートレイトが飾り、見返しには、衣装の情報が記された。
スタイリスト 野口佳香
ヘア&メイクアップ 宮崎隆行
撮影 磯谷良行
ワンピース¥42,000/プーダドゥーゼ 03・475・0511/
シャツ¥15,000/カミングスーン 03・479・2027
こうした都市風俗を強調した試みは、田中康夫の文藝賞受賞作『なんとなく、クリスタル』(『文藝』初出/1980/河出書房新社)の先行が思い起こされるだろう(単行本化の翌年ベストセラーの2位。松竹が松原信吾監督で映画化。サントラ盤はCBS・ソニー)。
『家族輪舞曲』では、さらに丁寧に、衣装を提供した店舗の電話番号も掲載されている。
椎名は、小説家デビューした年、ワープロのCMに出演。
「ワープロで小説を書く学生作家」と表記された。
『家族輪舞曲』は、翌年、映画化され(配給・東映クラシックフィルム)、椎名は脚本・監督も務めた。
さらにこの年、栄養食のCMに出演。
映画撮影の様子がもちいられ、「映画監督」と表記された。すでに見てきたように、自身の小説を、自ら監督を務め、映画化することは、石原慎太郎、村上龍、池田満寿夫などと同様の例になる。
被写体であったモデルが小説を書く。
すでに『月刊カドカワ』でもふれたが、そこで浮かび上がる事柄には、マガジンハウスにおいて、先行事例がある。
『家族輪舞曲』発行元のマガジンハウスは、女性ファッション雑誌『an・an』(1970年創刊)の発行元になる。
フランスの女性雑誌『ELLE』日本版として創刊された『an・an』では、思想家・吉本隆明が、ファッションブランド、コム・デ・ギャルソンを着る誌面「現代思想界をリードする吉本隆明の「ファッション」」を制作した(1984)。
このページについて、思想家・埴谷雄高が「「ぶったくりの商品」のCM画像に(引用者中略)吾国の高度資本主義は、まことに「後光」が射す思いを懐いたことでしょう」と物言いをつけた。
この論争に深くは立ち入らないが、この記事を掲載した前年、『an・an』の版元は、平凡出版からマガジンハウスとカナタカに変更。
平凡社の看板雑誌だった男性雑誌『平凡パンチ』は、その4年後に廃刊している(1988)。
その廃刊の年に、入れ替わるように女性雑誌『Hanako』を創刊し、マガジンハウス初の書籍部門への取り組みが始まった。
その最初期の文芸が、秋元康、椎名誠、林真理子に続く、椎名桜子の小説『家族輪舞曲』だった。
椎名の一連の動きは、当時、椎名の事務所の社長・六塔智美とともにマガジンハウス副社長・甘糟章が手がけた。
その直前、先行する動きがあった。
椎名の小説出版と同年、吉本隆明の娘・吉本ばななが『キッチン』(福武書店)で、日本大学・芸術学部卒業直後、23歳で小説家デビューする。
初出は、福武書店(現・ベネッセコーポレーション)の文芸雑誌『海燕』(河出書房新社『文藝』から移り寺田博が1982年創刊)で、前年、海燕新人文学賞を受賞していた。
祖母に育てられた孤独な女子大学生が、知人で、妻の死後に性転換した父とその息子の家で暮らすこの物語は、単行本化の翌年、ATG出身でもある森田芳光監督で映画化された(製作・光和インターナショナル。配給・松竹)。
この年、ベストセラー(出版指標年報)は吉本一色となる。
1位『TUGUMI』(中央公論社)2位『キッチン』(福武書店)5位『白河夜船』(福武書店)6位『うたかた/サンクチュアリ』(福武書店)7位『哀しい予感』(角川書店)と、ずらりと吉本作品が並んだ。
吉本は、その後も、多数の小説を発表している。
イタリア人のジョルジョ・アミトラーノ翻訳のイタリア語版「Kitchen」(1991/フェルトリネッリ)から火がつき、世界各国でも翻訳されていく。
一方、椎名は、『家族輪舞曲』に続いて、マガジンハウスから『おいしい水』(1990)発表後は、小説は発表していない。
このブロックの終わりに、再び『月刊カドカワ』についてふれておきたい。
『月刊カドカワ』では、写真家・横山正美がポートレイト撮影を手がけた。
元・日本航空国内線の客室乗務員から写真家に転身。
横山は、『月刊カドカワ』において、各界の夫婦72組のカラーポートレイト、村松友視の文を添えた著名人26名のモノクロポートレイトを手がけた(1989-91)。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
椎名桜子『家族輪舞曲(ロンド)』(1988/マガジンハウス)
埴谷雄高「政治と文学と・補足 吉本隆明への最後の手紙」『海燕』(1985/福武書店)
「椎名桜子を育てた六塔智美(モダンタイムス社長)独占インタビュー」(『週刊テーミス』1990年4月4日号)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな
ミュージシャン小説家を造る
<第5章 そして作家が消えた>
---1 小説家が消えた―――キャラクターから始まる文芸の加速
これまで、出版社は、ポートレイトにこだわり、人名にこだわることで、先行する出版社を乗り越える動きを見てきた(改造社のPR、文藝春秋の直木三十五賞・芥川龍之介賞、光文社の著者近影、角川書店の一挙文庫化など)。
その方法論は、その後、角川書店、マガジンハウスにおいて、ひとつの極限に達する。
角川春樹の片腕として『野性時代』(現・『小説 野性時代』)で働いた編集者・見城徹は、40代の女性をターゲットとしていた文芸雑誌『月刊カドカワ』(1983年創刊)の編集長に就任する(1985)。
実売わずか6千部。その立て直しが目的だった。
自身が惚れぬいた人物たちと仕事をすることを信条とする見城は、『野性時代』編集部時代、数多くのヒット作を生んでいた。
村上龍のデビュー作「限りなく透明に近いブルー」が群像新人文学賞を受賞した際(1976)、新聞記事に掲載された村上のポートレイトを一目見て惚れ、原稿も読まず、連絡先を探し出し、親交を結ぶ。
それは、中上健次と村上の対談集『俺達の船は、動かぬ霧の中を、纜を解いて』(1977/角川書店)へつながった。
大ファンだったという戯曲家つかこうへいの稽古場に何度も足を運び、角川書店と15年間の専属契約を結ぶ(1977)。
編集を担当した、有明夏夫「大浪花諸人往来―耳なし源蔵召捕記事」(1978)、つかこうへい「蒲田行進曲」(1981)、村松友規「時代屋の女房」(1982)など、『野性時代』初出作品から直木三十五賞受賞作を送り出した。
見城は、音楽家とも積極的に交流を持つ。
角川春樹の指示を受け、小学館発行の矢沢永吉の自叙伝『成り上がり』(聞き手・糸井重里)を小学館が筆頭株主の集英社で文庫化される前に角川文庫化(1980)。
ラジオから流れてきた曲に感動し、松任谷由実(東芝EMI)に自伝『ルージュの伝言』(1984)を執筆させた。
同じくラジオから流れてきた曲に感動した、当時18歳でプロデビューを飾って大きな話題となっていた尾崎豊(CBS・ソニー)へ猛アプローチ。
出版社から依頼が殺到しているなか、尾崎初の著書『誰かのクラクション』(1985)を出版した。
その裏には、見城流のアプローチがあった。
矢沢の事務所社長とは、映画館やテレビでCMを打てるならという条件を飲むことで文庫化を実現(矢沢はCBS・ソニーから海外進出を念頭にワーナー・パイオニアへ移籍直後)。
松任谷の場合は、赤裸々に語った内容から直前で出版を控えたいという松任谷に当時のライバル中島みゆきに勝てるよう約束し、一晩かけて説得している。
尾崎の場合は、尾崎の所属事務所の先輩ハウンド・ドッグの書籍も出すという取り引きを行っている。
こうしたやり方について、見城は、慶応義塾大学在学中に学生運動を行っていた時期が常に頭にあり、27歳で射殺された奥平剛士の生き様が影響していると述べている。
極左組織・日本赤軍の創設メンバーの奥平は、イスラエル政府に仲間の開放を突きつけていたパレスチナ解放人民戦線(PFLP)から依頼を受け、テルアビブ空港で乱射事件を起こし、射殺された(1972)。
学生運動に取り組んでいた見城にとって、この奥平の生き様を思えば、何も恐れるものはないという。
『月刊カドカワ』に戻ろう。
見城は、編集長就任前は、長友啓典(日本デザインセンター出身)のアート・ディレクションで女性の顔のイラストだった表紙を、女優の表紙に変えた(その最初は古手川裕子)。
見城就任以前、著名人が食する連載企画(その最初は風間杜夫)を撮影していた篠山紀信に表紙ポートレイトを託した。
その後、写真企画ページは、数回で終了するが、著名人が著名な女性を写す企画へとなった(その最初は、撮影・中上健次、被写体・都はるみ)。
自身が惚れぬいた音楽家・坂本龍一と当時の坂本夫人・矢野顕子の連載「月刊リュウイチ」と「月刊アッコちゃん」の夫婦連載をウリにした。
また、安西水丸、池田理代子、高橋三千綱(原作)、岡崎京子らの漫画を掲載。
池田には初となる小説も書かせている。
大きな転換点となったのは、一人の人物を特集した“総力特集”の取り組みだった。
以後、部数が右肩上がりに伸びていったという。
その最初は、松任谷由実だった(1988)。
この“総力特集”によって誌面が変化していく。
松任谷は、これまで女優が表紙を飾っていたなかで一度だけ表紙となっていたが(1986)、松任谷の表紙と“総力特集”という組み合わせ(1988年1月号)が行われて以後、2月号表紙・安田成美に特集・松任谷由実。
3月号はともに矢野顕子。
以後、今井美樹(7月号)斉藤由貴(8月号)つみきみほ(9月号)大貫妙子(10月号)黒木瞳(11月号)NOKKO(12月号)と7月号以降明確に形作っていく。
このとき、見城は、斉藤由貴や黒木瞳といった、被写体としてそのキャリアを始めたアイドルや女優に、絵と文を組み合わせた短い文章を書かせている。
すでに誌面では、尾崎豊、中村あゆみ(ハミングバード)、渡辺美里(EPIC・ソニー)などの記事を取り上げ始めていたが、文芸雑誌にも関わらず、音楽家を軸に、被写体と文筆が交差していく誌面づくりは、当時の時代背景が可能にしている。
見城が『月刊カドカワ』の編集長に就任した頃、NOKKO率いるレベッカ(CBS・ソニー)やBOOWY(東芝EMI)が登場し、ロックバンドがさらに身近なものとなる。
カラーグラビアを主体とした音楽雑誌『PATi・PATi』が創刊し(1984/CBS・ソニー出版)、チェッカーズ(ポニーキャニオン)大沢誉志幸(EPIC・ソニー)吉川晃司(SMSレコード)尾崎豊らが並置された。洋楽紹介を行う音楽雑誌『ロッキング・オン』の姉妹雑誌となる邦楽雑誌『ロッキング・オン・ジャパン』も創刊された(1986)。
また、TM NETWORK(EPIC・ソニー)のメンバー木根尚登が、CDアルバムと連動した小説『CAROL』(1989/CBS・ソニー出版)も発表している。
そうした時代、『月刊カドカワ』では、やがて音楽家が小説や絵本を発表していく。
アイドルからの脱皮を図っていた斉藤由貴(ポニー・キャニオン)の創作「夕方から」(1989)。
原由子(ビクター音楽産業)の絵本「眠れぬ夜の小さなお話」(1989)。
尾崎豊の長編小説「黄昏ゆく街で」(1990)。
筋肉少女帯(トイズファクトリー)を率いた大槻ケンジの初の小説「新興宗教オモイデ教」(1992)などを掲載した。
小川洋子が芥川賞を受賞した翌年、小川が大ファンの佐野元春についての小説を書かせるという試みも行われる(1992)。
また、この時期、『月刊カドカワ』では、俵万智の短歌と浅井慎平の写真を組み合わせて掲載した(1987)。
掲載の年、河出書房新社から出た俵の単行本『サラダ記念日』(1987)は、その年ベストセラーの1位(出版指標年報)に。
短歌ブームが起こる。
俵の単行本は他社からの出版が先行したが、このとき、見城は、銀色夏生を『月刊カドカワ』で大々的に取り上げていく。
沢田研二の歌「晴れのちBLUE BOY」(ポリドール/1983)の作詞を手がけた銀色の詩に感動し、すでに銀色自身が撮影した写真を添えた詩集『これもすべて同じ一日』(1986)を角川書店から出していたが、背景はやはり音楽だった。
小説を書けそうな人物に小説を書かせる試みは、角川春樹から受け継いだ方法論とはいえ、こうした時代の波と連動していた。
結果、音楽雑誌と見分けのつかない文芸雑誌となった『月刊カドカワ』は、最盛期には18万部まで売り上げたという。
その後、見城は、角川春樹の薬物事件による社長解任とともに角川書店を退社。
幻冬舎を設立する。
『ダ・ヴィンチ』の好きな出版社ランキング(①講談社②新潮社③幻冬舎④集英社⑤角川書店)を念頭におきながら、見城は、出版社を興した心境を次のように述べている(2007)。
講談社や小学館をひっくり返してやろうと思わない限り、やる意味がない。
その器のなかに幻冬舎が価値を置くことほど、愚かなことはない。
文春の価値では生きている意味もないし、その価値観を変えなければ勝ったことにならない。
もちろん、我々は、この言葉から、角川春樹の言葉を思い出すだろう。
『月刊カドカワ』は、見城退社の5年後、廃刊した(1998)。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
見城徹『編集者という病い』(2007/太田出版)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな
赤瀬川原平 登場
<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>
---3 非新聞社系写真雑誌創刊―――芸術のようなもの
②―――芥川賞受賞者・尾辻克彦/美術作家・赤瀬川源平も『写真時代』で連載
『写真時代』では、創刊2年目の年、芥川龍之介賞受賞者の連載が始まる。
美術家・赤瀬川原平になる。
赤瀬川は、武蔵野美術学校(現・大学)中退後、“ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ”(1960)“ハイレッド・センター”(1963-64)で前衛美術家として活動。
銀座の街頭で白衣を着て怪しげな清掃を行うなど、美術館のなかでの活動に留まらず、日常のなかへ表現を広げた(寺山修司への影響を思い浮かべることは容易だろう)。
千円札を本物そっくりに模倣したことで、有罪判決を受けた「千円札裁判」で一躍有名に(1965-70)。
その後は、村松友視の依頼で『海』に小説を書いたことで(1978)、文壇と交わっていく。
赤瀬川は、ペンネーム・尾辻克彦名義で『文學界』に発表した短編小説「父が消えた」(1980)で、発表の翌年、芥川賞を受賞した(受賞時41歳)。
池田満寿夫の4年後の受賞になる。
すでに、尾辻克彦名義の最初の作品「肌ざわり」で(『中央公論』掲載)、中央公論新人賞を受賞(*またしても1979!)。
文壇にとって期待の新人だった。
赤瀬川は、『写真時代』では、写真を中心とした連載を行った。
無用の長物となった建造物を撮らえ、“超芸術トマソン”と名づけた。
まったく成果を出さないにも関わらず四番を守り続けた元読売巨人軍の助っ人外国人トマソンに由来する。
『写真時代』の編集長・末井昭は、赤瀬川が講師を務めた「美学校」(神保町・1969年創立)に学んだ。
赤瀬川以外も、『写真時代』では、“昭和軽薄体”という言葉で呼ばれる「言文一致」に取り組んだ、赤瀬川門下の南伸坊、渡辺和博らが連載を持っており、編集者にも卒業生が多かった。
末井は、『写真時代』の編集方針について、次のように述べている。
カメラ雑誌なんかで、いい写真といわれるものはなぜあんなに面白くないのだろうか、という疑問があったので、写真を選ぶ基準は、わいせつなもの、面白いもの、あるいはヘンなものということにした。
ここで我々は、『カメラ毎日』の編集者・山岸章二が語った「「良い写真」なんていうものはないんだ」の言葉を思い出すだろう。
末井は、書店の奥に置かれることの多いエロ雑誌を店頭にももってこられるよう、『写真時代』の表紙にアイドルタレントを起用した(創刊号表紙・三原順子)。
創刊号はほぼ完売。
発行部数はウナギ登りに増え、同傾向のナンパ系写真雑誌ブームを生み出していくことになった。
けれども、『アサヒカメラ』は現在残るが、『カメラ毎日』も『写真時代』も今はない。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
末井昭『パチプロ編集長 パチンコ必勝ガイド物語』(1997/光文社)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな