宇山日出臣(秀雄)から太田克史へ
<第5章 そして作家が消えた>
---1 ポートレイトも消えた―――覆面作家続々と
④―――講談社発「イラストーリー・ノベル」『ファウスト』創刊
講談社は、1996年、文芸雑誌『メフィスト』を創刊する(2016年版電子版のみに)。
かつて中間小説雑誌の御三家のひとつとも称された『小説現代』(1963年創刊)の増刊号として年3回発行。
創刊にあわせて、メフィスト賞が創設された。
“講談社”をイメージすべく、人名を掲げた主催賞を見ておこう。
野間文芸賞(1941年創設)、江戸川乱歩賞(1954年制定)、野間児童文芸賞(1963年創設)、吉川英治文学賞(1967年創設)、吉川英治文化賞(1967年創設)、亀井勝一郎賞(1969年創設-82年終了)、平林たい子文学賞(1972年創設-97年終了)、野間文芸新人賞(1979年創設)、吉川英治文学新人賞(1980年創設)、ちばてつや賞(1980年創設)、野間文芸翻訳賞(1989年創設)、大江健三郎賞(2006年創設-14年終了)、吉川英治文庫賞(2015年創設)などになる。
野間は、講談社の創設者の名になる。
こうした社風の元に、『メフィスト』もある。
では、メフィスト賞初期の受賞者を見てみよう。
森博嗣・清涼院流水・蘇部健一・乾くるみ・浦賀和宏・積木鏡介・新堂冬樹・浅暮三文・高田崇史・中島望・高里椎奈・霧舎巧・殊能将之・古処誠二・氷川透・黒田研二・古泉迦十・石崎幸二・舞城王太郎・秋月涼介・佐藤友哉・津村巧・西尾維新・北山猛邦・日明恩・石黒耀。
以上、2002年までの受賞者を挙げた。
『メフィスト』の編集者・宇山日出臣(秀雄)は、一般の賞とは違って、「メフィスト賞は逆を行く「狭く濃く」という戦略」という考えがあったという。
宇山は、日本推理小説の三大奇書ともされる中井英夫(短歌雑誌『短歌』(角川書店)の元・編集長)の『虚無への供物』(碧川潭名義で会員制同人誌『アドニス』初出)を文庫化(1974)。
“新本格”のミステリーを掲げた島田荘司(江戸川乱歩賞最終候補作となった『占星術殺人事件』(1981)で小説家デビュー)らを手がけてきた編集者になる。
講談社は、さらに『小説現代』の増刊号として、文芸雑誌『ファウスト』を創刊する(2003)。
編集長は、宇山に憧れ、早稲田大学卒業後、講談社へ入社した『メフィスト』の編集者だった太田克史が務めた。
創刊の背景には、笙野頼子と大塚英志の文学・文芸誌論争をきっかけに2002年に始まった文学フリマがあった。コミックマーケットをモデルに、プロとアマに関わらず、自身が“文学”と考える作品を出品・販売を行なう場が作られる。東京の青山ブックセンターで開催された第1回には、佐藤友哉・西尾維新・太田克史が執筆し、舞城王太郎が挿絵を描いた同人誌『タンデムローターの方法論』が販売された。佐藤友哉のサイン会には行列ができ、話題となっていた。
『ファウスト』創刊号は、舞城王太郎、メフィスト賞受賞時21歳の佐藤友哉、「京都の二十歳」のキャッチコピーで小説家デビューした西尾維新ら、メフィスト賞受賞者が執筆する。
太田は、創刊時のことを、人気小説家を率いてといった華々しいものではなく、勝算もなく、佐藤などは瀬戸際だったとも述べているが、舞城と西尾は、ポートレイトの公表や詳しい経歴は明らかにされていないメンバーだった(現在も)。
『ファウスト』創刊号の表紙には、キャッチコピー「闘うイラストーリー・ノベルスマガジン」と掲げられた。
『ジャンプノベル』のキャッチコピー「小説+漫画=未体験快感」は、まだ分離していたが、ここでは、イラストが先行したうえで造語になっている。
と同時に、我々は、『コンプティーク』の「闘うパソコンゲームマガジン」を思い出すだろう。
掲載内容は、佐藤の「赤色のモスコミュール」には鬼頭莫宏(当時漫画『なるたる』を『月刊アフタヌーン』(講談社)で連載)がイラストを。
西尾の「新本格魔法少女りすか」は西村キヌ(当時カプコンのデザイナーで『ストリートファイター』などのキャラクターデザインを手がける)のイラストが添えられたが、「イラストーリー」の通り、舞城の「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」では舞城自身がカラーイラストを添えた。
また、『ファウスト』には、ゲームクリエイター飯野賢治の小説(イラストは『週刊ヤングマガジン』(講談社)で活動していた漫画家すぎむらしんいち)、清涼院流水のインタビュー、思想家の東浩紀と精神科医の斉藤環の評論も掲載された。
太田は、自身の編集について、こう述べている。
おたくはおたくだけで盛り上がっていて、いわゆるメイン・カルチャーはメイン・カルチャーで格式、伝統、みたいなところに安住して閉じていて。
僕は、おたくの分野にはすごい才能がいるってわかっていた。
太田の発言はやや謙虚だが、我々は、ここで、山岸章二にとっての篠山紀信や立木義浩、村松友視にとっての伊丹十三や唐十郎、角川春樹にとっての片岡義男や池田満寿夫、見城徹にとってのつかこうへいや松任谷由美らへの取り組みを思い出すだろう。
結果、太田は、誌面に、はやみねかおる(主に児童文学)、大塚英志(漫画編集・漫画原作・評論)、上遠野浩平(『ブギーポップは笑わない』で電撃ゲーム小説大賞受賞)、奈須きのこ(ゲームシナリオライター)を引っ張っている。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
渡辺浩弐『ひらきこもりのすすめ2.0』(2007/講談社BOX)
季刊 島田荘司 on line「島田荘司のデジカメ日記 第244回」
季刊 島田荘司 on line「島田荘司のデジカメ日記 第280回」
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな
角川歴彦 登場
<第5章 そして作家が消えた>
---1 ポートレイトも消えた―――覆面作家続々と
③――読者参加型からゲーム小説/イラスト/ゲームデザイン/3賞同時創設へ
1994年、メディアワークス(現・KADOKAWAグループ)は、電撃ゲーム3大賞を創設する。
電撃ゲーム小説大賞・電撃イラスト大賞・電撃ゲームデザイン大賞になる。
第1回電撃ゲーム大賞の審査委員は、高千穂遙(アニメ作家、SF小説家)・林海象(映画監督)・矢野徹(SF作家)・角川歴彦(メディアワークス社長*現・KADOKAWA取締役会長、カドカワ取締役会長)が務めた。
電撃ゲーム大賞の大賞は、土門弘幸「五霊闘士オーキ伝 五霊闘士現臨!」が受賞する。
電撃イラスト大賞・電撃ゲームデザイン大賞は、ともに大賞受賞者はなかった。
賞の創設について、佐藤辰男(メディアワークス専務*現・カドカワ取締役相談役)は、「新しい才能を探さなくちゃいけない」と述べている。
主催のメディアワークスは、角川春樹の弟・歴彦率いる角川メディアオフィスから生まれた会社だった。
歴彦は、早稲田大学卒業後、角川書店に入社し、『ザテレビジョン』創刊(1983)によって、独自色を発揮していく。
新会社「メディアワークス」誕生の際(1992)、『電撃スーパーファミコン』(現・電撃Nintendo)、『電撃PCエンジン』(現・電撃G's magazine)、『月刊電撃コミックGAO!』(*休刊)、『電撃王』(*休刊)、『電撃メガドライブ』(*休刊)の5つの雑誌を創刊する。
その多くが、パソコンとゲームの雑誌『コンプティーク』(角川書店)から移ったメンバーが関わった。
歴彦の兄・春樹の長男社長就任に端を発し、歴彦は独立。
それに伴い、ゲーム雑誌『コンプティーク』のコーナーから発展した『マル勝ファミコン』、『マル勝PCエンジン』、コンプティーク別冊 コミックコンプティーク『月刊コミックコンプ』が、そのままスライドした。
こうした雑誌の元となった『コンプティーク』の実質の編集長が、「新しい才能を探さなくちゃいけない」と述べた佐藤だった。
賞の創設は、雑誌周知の新規事業としてだった。
“コンプティーク”は元々、アップルが開発した、世界初の量産型パーソナルコンピューター「Apple II」(1977)のソフトを、日本に紹介する目的で設立されていたゲーム会社になる。
「ブラウン管のまわりに雑誌のシーズ(種)がある!」と考えていた歴彦の考えから、そこに佐藤が加わり、雑誌がスタートした。
そのため、当時できたばかりの『ザテレビジョン』(角川書店)の別冊という、ブラウン管まわりの雑誌として創刊された(1983)。
創刊号の表紙ではパソコンを模した『コンプティーク』のキャラクターイラスト、Vol.3では『ザテレビジョン』(角川書店)の表紙撮影でおなじみのレモンよろしく、ジャイアント馬場が黄色の『コンプティーク』のキャラクターを手にしている。創刊当時は、(現在では考えられにくいが)パソコン雑誌にアイドルの表紙を使うことに異論もあったというが、以上の最初期をのぞき、人気女性アイドルが表紙となっていく。
角川書店全体とも連動しており、創刊号では角川映画化されていた『里見八犬伝』のパソコンソフトコンテストの開催を告知。
薬師丸ひろ子・原田知世・渡辺典子の角川3人娘を特集(1984)、矢野徹の原作で角川アニメ化した『カムイの剣』公開にあわせて作られたPC-88用ゲームの特集(1985)なども行われた。
創刊号には「パソコンと遊ぶ本」とキャッチコピーと書かれたが、月刊化にあたり、「闘うパソコンゲームマガジン」となった(1986年1月号。表紙・松本伊代)。
当時は、ベストセラー(出版指標年報)の1位『スーパーマリオブラザーズ 完全攻略本』(1985/徳間書店)9位『スーパーマリオブラザーズ 裏ワザ大全集』(1986/二見書房)。
翌年、ベストセラーの1位『スーパーマリオブラザーズ 完全攻略本』3位『スーパーマリオブラザーズ 裏ワザ大全集』9位『ツインビー完全攻略本』(1986/徳間書店)という時代だった。
『コンプティーク』でも、マリオブラザーズの登場以後、ファミリーコンピュータの特集を開始(1985年より)。
それがやがてファミコンに特化した雑誌『マル勝ファミコン』へと発展していく(1986)。
雑誌としての転機は、とあるゲーム大会で角川歴彦がアメリカのテーブルゲームRPG「ダンジョンズ&ドラゴンズ」(1974年制作)を見たことになる。
『コンプティーク』誌上では、“リプレイ”と呼ばれるボードゲームを実況中継化したTRPG版「ロードス島戦記」(1986年より連載)となった。
連載は、歴彦が依頼し、トレーディングカードの制作・販売を行っていた安田均とグループSNEが手がけた。
京都大学SF研究会出身の安田と清松みゆきの他、水野良、山本弘、友野詳らが所属していた。
連載にあたり、イラストは、編集部が探してきた出渕裕が担当する。
佐藤は、早稲田大学卒業後、就職したおもちゃの業界新聞の記者からの転身者で、カードゲームやボードゲームへの関心が高く、テレビゲーム誕生以前の素養があったことも後押しとなった。
TRPG版「ロードス島戦記」は、パーティーゲームでもあるボードゲームの楽しみを再現するために、ゲーム全体の進行役も登場させ、プレイヤーが実際発言しているような会話劇の方法で描かれた(のちに小説として書き換えられ、『野性時代』に連載されたのち、角川文庫から、原案・安田均、イラスト・出渕裕、著者・水野良として 出版された)。
こうした作り方は、雑誌全体にも及んでいく。
雑誌が用意した物語の初期設定に、読者が専用の葉書を使って投稿し、その内容に左右されて進んでいく“読者参加型”が発展する(「ロボクラッシュ」「トップをねらえ!」など)。
ここでは、読者が著者として主となり、小説家の役割は原作者となり、漫画家はイラストレーターとならざるを得ないかたちだった。
『コンプティーク』には、漫画も連載される。
連載第1弾となった「神聖記ヴァグランツ」(1986-88)は、ゲームライター集団“ヴォクソール・プロ”が原作を受け持ち、麻宮騎亜(アニメーターの菊池通隆の変名)が作画を行った。
その際、情報雑誌形態に漫画を掲載するため、漫画を雑誌の後ろから読む誌面作りを行っている。
正統派パソコン雑誌『ログイン』(アスキー*現・KADOKAWAグループ)に対抗するためだったというが、結果、「女性の裸・漫画・スキャンダル」は取り扱わない角川書店の理念を破ることになったという。
こうした背景にあるのが、“小説”という呼称だけではない、電撃ゲーム小説大賞・電撃イラスト大賞・電撃ゲームデザイン大賞の、冒頭でふれた3賞だった。
(その後、電撃ゲーム小説大賞は電撃小説大賞へ、ボードゲームやカードゲームが対象の電撃ゲームデザイン大賞は2回で終了したのち電撃コミック大賞へとなっている)
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
プロジェクトEEG「佐藤辰夫『コンプティーク編集長時代を語る』」(2008)
4Gamer.net「ゲームの周りに凄い才能が集まっていた――日本のコンテンツ業界を振り返る「ゲーマーはもっと経営者を目指すべき!」第12回は,KADOKAWA代表取締役社長・佐藤辰男氏がゲスト」(2013)
大塚英志『キャラクター小説の作り方』(2003/講談社現代新書)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな
集英社発 小説+漫画⇒文芸・イラスト・匿名
<第5章 そして作家が消えた>
---1 ポートレイトも消えた―――覆面作家続々と
②―――『ジャンプノベル』その後 5人の乙一
『ジャンプノベル』以後は、何が起こったのか?
文芸の流れ、イラストの流れ、そして、匿名の流れになる。
村山由佳は、ジャンプ ジェイブックスから、歴史ある文芸へと展開していく。
ジャンプ ジェイブックスからは、『ジェンプノベル』に掲載した『もう一度デジャ・ヴ』『おいしいコーヒーの入れ方』(ともにイラスト志田正重)シリーズ(1993)を刊行。
「春妃〜デッサン」(単行本時『天使の卵 エンジェルス・エッグ』)は、小説すばる新人賞(主催・集英社)を受賞した(1993)。
翌年、『天使の卵』は、NHK-FM『青春アドベンチャー』でラジオドラマ化された。
村山は、2000年頃まで、集英社を主な拠点したのち、『別冊文藝春秋』に連載した「星々の舟」で直木三十五賞を受賞した(2003/文藝春秋)。
もう一つの流れを見よう。
『ジャンプノベル』廃刊にあたり、ジャンプ小説・ノンフィクション大賞も終了した。
以後、現在のジャンプ小説大賞~ジャンプ小説新人賞に。
このとき、イラストレーター部門が誕生した(しかし2013年廃止)。
三つの目の流れは、乙一になる。
乙は、「夏と花火と私の死体」でジャンプ小説・ノンフィクション大賞を受賞した(1996)。
出版時は17才だった。
その後、村山と同じく2000年頃まで、ジャンプ ジェイブックスと集英社の文芸で活動するが、角川書店、幻冬舎、講談社などへ展開していく。
同時に乙は、“山白朝子”・“中田永一”という別名義による小説を発表。
講談社ノベルス・電撃文庫(KADOKAWA アスキー・メディアワークス)・メディアワークス文庫(KADOKAWA アスキー・メディアワークス)をまたにかける覆面作家“越前魔太郎”の一人としても活動する。
さらに本名の安達寛高で、学生時代から活動していた自主映画の監督作品も発表している。
当初、“山白朝子”・“中田永一”の正体は不明だったが、中田永一名義の『くちびるに歌』(小学館)が小学館児童出版文化賞に選ばれた際、「出版社が宣伝しにくそうで申し訳ない」という理由から自ら公表。
乙が贈呈式に出席した(2012)。
乙は、覆面作家を続けた理由について、「いろいろ理由はあるのですが、一つは心のバランスをとるため。一から出直したいという気持ちがあったから」「過大評価されているようで、持ち上げられている感じがよくないと思った。誰も知らないところで、しばらく隠れようということでした」と述べている。
その後、乙一・中田永一・山白朝子・越前魔太郎・作品解説を安達寛高によるアンソロジー『メアリー・スーを殺して 幻夢コレクション』(2016/朝日新聞出版)を発表している。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
「乙一さん:人気作家、小学館児童出版文化賞贈呈式で別名義の活動認める」(毎日新聞 2012年11月20日 東京夕刊)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな
集英社発 小説+漫画
<第5章 そして作家が消えた>
---1 ポートレイトも消えた―――覆面作家続々と
①―――集英社発の少年漫画誌『週刊少年ジャンプ』から文芸へ「小説+漫画」
1991年、『ジャンプノベル』が創刊される。
春と夏、年3回の発行で、『週刊少年ジャンプ』の特別編集増刊だった。
このとき、ジャンプ小説・ノンフィクション大賞が創設された。
力点は、ノンフィクションにあった。
この年、本家『週刊少年ジャンプ』は、『週刊少年マガジン』(講談社)『週刊少年サンデー』(小学館)『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)の週刊少年漫画誌を突き放し、発行部数が600万部を超える。
連載は、「ドラゴンボール」(鳥山明)「シティーハンター」(北条司)「ジョジョの奇妙な冒険」(荒木飛呂彦)「ろくでなしBLUES」(森田まさのり)「まじかる☆タルるートくん」(江川達也)「電影少女」(桂正和)「SLAM DUNK」(井上雄彦)などの人気作が飾っている。
それでも、なぜ、小説だったのか?
すでに『月刊カドカワ』でもふれたが、表方の異ジャンルから文芸の世界へと入ってくる動きは、集英社でもあった。
ロックバンドのECHOES(CBS・ソニー)でデビューしていた辻仁成が、すばる文学賞(主催・集英社)を受賞(1989)。
続いて、戯曲家で演出家・唐十郎の息子で、日本大学・芸術学部在学中に映画俳優として本格的にデビューしていた、俳優・大鶴義丹が、同じくすばる文学賞を受賞している(1990)。
また、少し先行して、文芸雑誌『すばる』(1970年創刊)に対してエンターテインメント寄りの文芸雑誌『小説すばる』を創刊(1987)。
(新潮社では、三島由紀夫賞と山本周五郎賞が同時に創設された(1987))
“小説”は、相対的に地位が低下し、再確認の時期にあった。
「ジャンプ」の方でも、鳥山明「Dr.スランプ」(1980-84)「ドラゴンボール」(1984年連載開始)の大ヒットにより、編集部の鳥嶋和彦の元で、テレビアニメ化、テレビゲーム(鳥山明がキャラクターデザインを担当。シナリオをゲームライターの堀井雄二が手がけた『ドラゴンクエスト』)などの複合的な展開が形作られていた。
“集英社”をイメージすべく、人名を冠した主催賞を見ておこう。
手塚賞(1971年創設)、赤塚賞(1974年創設)、柴田錬三郎賞(1988年創設)、開高健ノンフィクション賞(2003年創設)、渡辺淳一文学賞(2015年創設)などになる。
こうした社風の元に、『ジャンプノベル』もある。
『ジャンプノベル』の創刊号を見よう。
表紙には、キャッチコピー「小説+漫画=未体験快感」と記された。
その誌面は、イラスト化されたアーノルド・シュワルツェネッガーが表紙。
ビートたけしと秋本治(代表作漫画「こちら葛飾区亀有公演前派出所」)の対談。
漫画「電影少女」「BASTARD!!」のノベライズ(富田祐弘、岸間信明のアニメーション脚本家が担当)。
小説からは、芥川龍之介賞受賞者・高橋三千綱の「卒業」、日本推理作家協会賞と吉川英治文学新人賞を『ジャンプノベル』創刊の年に受賞した大沢在昌の「黄龍の耳」、当時報道番組『ニューステーション』(テレビ朝日系列)の旅コーナーに出演し、人気となっていた立松和平の「一人の海」、スポーツ・ジャーナリスト山際淳司「ライオンの夏」の、それぞれ漫画化などだった(幡地英明、原哲夫、岸大武郎、今泉伸二・たけだつとむの漫画家が担当)。
誌面では、ジャンプ小説・ノンフィクション大賞も発表された。
審査員を、立松和平・高橋三千綱・栗本薫の小説家と、「ジャンプ」600万部の時期に立ち会った4代目編集長・後藤広喜が務めた(立松は第1回早稲田文学新人賞受賞。高橋・栗本は早稲田文学部)。
第1回は、大賞を、前野兆治(重雄)「川崎ドリーム 川崎球場に客が来た日」(受賞時38歳。イラスト・塩崎雅哉)と定金伸治「ジハード」(受賞時20歳。イラスト・山根和俊)の2作が受賞。
佳作を、村山由佳「もう一度デジャ・ヴ」(受賞時27歳。イラスト・志田正重)が受賞している。
掲載された「小説+漫画」は、創刊から2年後、ジャンプ ジェイブックスのシリーズ
として出版されていく。
岸間信明『BASTARD!!』(萩原一至)、大沢在昌『黄龍の耳』(原哲夫と鶴岡伸寿)、定金伸治『ジハード』(山根和俊)、山際淳司『北のオオカミ』(今泉伸二)。
外池省二『シティーハンター』(北条司)、高橋三千綱『卒業』(幡地英明)、鳴海丈『完真者真魁』(鶴田洋久)が2ヶ月連続で出た(()はイラスト担当者)。
しかし、本家「ジャンプ」が発行部数のピーク(1995)を終えた4年後、『ジャンプノベル』は、16号で廃刊した(1999)。
このブロックの最後に、講談社の話になるが、梶原一騎にまつわる言葉を引いておきたい。
梶原は、『週刊少年マガジン』(講談社)のヒット漫画の原作者になる。
「巨人の星」「柔道一直線」「あしたのジョー」「タイガーマスク」「キックの鬼」「空手バカ一代」「侍ジャイアンツ」「愛と誠」などがある。
当時の「マガジン」の編集長・牧野武朗は、梶原へ、当時地位の低かったという漫画仕事の依頼にあたり、こう伝えたという(1962)。
少年マンガも今や週単位の時代に突入しました。
この際、原作、原画と徹底した分業システムを取り入れたいと思うのです。
『ジャンプノベル』創刊のおよそ30年前のことだった。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
西村繁男『さらば、わが青春の『少年ジャンプ』』(1998/幻冬舎)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな
文芸冊子に現代美術家が入り込む
<第5章 そして作家が消えた>
---2 写真家も消えた―――美術家であり写真家であり…
②―――現代美術家/写真家・松蔭浩之と元音楽家の芥川賞受賞者
2005年、文芸雑誌『早稲田文学』(早稲田文学会)がリニューアルされる。
同時に、『早稲田文学』の編集者・市川真人の主導によって、フリーペーパー版『WB』が創刊される。
このとき、美術家であり写真家の松蔭浩之が起用された。
松蔭は、篠山紀信に憧れ、写真家を志す。大阪芸術大学・写真学科在学中、森村泰昌の撮影アシスタントを務め、森村のセルフポートレイト写真作品の撮影も担当した。
1990年には、森村に続いて、ヴェネチア・ビエンナーレのアペルト部門に、アートユニット“コンプレッソ・プラスティコ”として選出される。
当時24歳での出品は、世界最年少だったという。
以後、松蔭は、現代美術家としての活動と写真家としての活動を平行して行う。
そのひとつに、デヴィッド・ボウイのアルバム『Heroes』に自身が入り込んだセルフポートレイト写真作品がある。
名画に入り込む森村の弟子所以だろう。
(ボウイの『Heroes』のジャケット撮影は鋤田正義。寺山修司の映画『書を捨てよ、町へ出よう』の撮影監督も務めた鋤田は、70年代初頭にイギリスへわたり、当時台頭してきたグラムロックミュージシャンの撮影に成功。以後、ロック写真家のスタイルを生み出してく)
その後も、松蔭は、ギャラリーで創作楽器などをもちいてコンサートを行うアートロックユニット“ゴージャラス”を結成。
観客の声に反応してロックコンサートのステージ体験が味わえるインスタレーション「STAR」など、ロックをモチーフとした作品を数多く発表している。
松蔭は、『WB』において、写真連載ページを託される。
女性モデルを用いた写真を掲載したのち、文芸家の撮り下ろし企画が始まる。
その最初が、このフリーペーパーで実質の小説家デビューとなった川上未映子だった。短編「感じる専門家 採用試験」(2006)とともに掲載された。
川上は、『WB』に掲載される4年前、音楽家としてすでにビクターエンタテインメントからメジャーデビューを果たしていた。
3枚のCDアルバムを発表し、そのすべてが本人のポートレイトのジャケットとなっている。
「感じる専門家 採用試験」掲載号では、松蔭の撮影による川上のポートレイトが表紙を飾り、紙面内では、野外で撮影された撮り下ろしショットが掲載された。
それから2年後の2008年、川上は、『文學界』に掲載された「乳と卵」で芥川龍之介賞を受賞する。
その後、詩の朗読会で、松蔭はドキュメント写真を担当し、その一枚は本人の公式写真となった。
芥川賞受賞をきっかけに川上を密着撮影したドキュメンタリー番組『情熱大陸』(TBS系)が放送された際、そのポートレイトがもちいられた。
また、『WB』の創刊号では、モブ・ノリオの短編が掲載されている。
モブは、前年に『文學界』に掲載された「介護入門」で芥川賞を受賞。
大阪でスカム・ロックバンドの一員として活躍したのち、小説家としてデビューを果たした。
芥川賞を受賞してから5年後の2009年、モブは、『JOHNNY TOO BAT 内田裕也』(文藝春秋)を発表する。
モブの2作目で、書き下ろしとなる長編小説「ゲットー・ミュージック」とロック・ミュージシャン内田裕也がかつて雑誌で行った対談とを合冊した本だった。
このとき、松蔭がモブの撮り下ろしポートレイトを撮影。
内田裕也の対談サイドも、松蔭が内田のポートレイトを撮り下ろし、ともに表紙を飾っている。
松蔭は、ポートレイトを通してロックのイメージを増幅させた。
このブロックの最後に、その後の『早稲田文学』についてふれておきたい。
『早稲田文学』は、第10次の復刊準備号に掲載した川上未映子「わたくし率イン歯ー、または世界」が芥川賞候補に。
川上の芥川賞受賞後となった復刊1号(2008)では、表紙となった川上を篠山紀信が撮影している。
以後、篠山が表紙とグラビアを手がけていく。
グラビアは不定期刊行から季刊となった際、「Kishin×WB」と称され、編集委員は、東浩紀・角田光代・川上未映子・藤井光・ヤマザキマリ・堀江敏幸・市川真人となった。
そして、松蔭浩之は、『女性自身』(光文社)の新刊紹介ページにて、文芸家のポートレイト撮影を始めている(2011-)。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
モブ・ノリオ『JOHNNY TOO BAD内田裕也』(2009/文藝春秋)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな
写真賞に美術家が入り込む
<第5章 そして作家が消えた>
---2 写真家も消えた―美術家であり写真家であり被写体であり…
1993年度の木村伊兵衛写真賞の最終選考に、一人の美術家が残った。
森村泰昌になる。
審査の対象になったのは、『着せかえ人形第1号』(小学館)だった(木村伊兵衛写真賞は、写真関係者から事前アンケートのなかから候補が選ばれる)。
森村が、西洋の名画に入り込んだセルフポートレイト写真作品やマドンナやマイケル・ジャクソンなどのポップスターに扮したセルフポートレイト写真作品をまとめた写真集だった。
選考委員は、この賞のスタート時のように文芸家はおらず、篠山紀信・高梨豊・長野重一・奈良原一高・藤沢正実(『アサヒカメラ』編集長)と、写真家が中心となって務めた。
森村の写真集は、篠山紀信が強く推すも受賞を逃がす。
篠山は、こう述べている。
はたしてこれを旧来の意味で写真作品といっていいのだろうか。
オリジナルな自己創作物ではない他者の創作物にすり替わるという意味では、従来のアートの側からもこれは異端であり、写真の側からも美術家のコンセプトにただ写真を利用しただけといわれ、どちらの側からもはみ出た作品なのだ。
だが、ぼくはこの一冊にひどく興味をそそられた。
それはただ一点、ならばこの作品は写真以外の表現で成立しただろうか、ということだ。
森村は、京都市立芸術大学で、アメリカのグラフ誌『LIFE』の特派員も務めていた写真家アーネスト・サトウに学んだ。
1985年、ゴッホの自画像に自ら入り込んだセルフポートレイト写真作品を発表。
それから3年後、西洋の名画に入り込んだセルフポートレイト写真作品が、国際的な美術展、ヴェネチア・ビエンナーレの若手部門アペルトに出品されたことで、大きく注目されることになった。
当時の状況について、森村は、「私が出品した88年のアペルトは、現代美術が商品になった先駆けで、日本美術のグローバル化元年でもある」と語る。森村が述べたように、以後、「アゲインスト・ネイチャー」展(1989~91/サンフランシスコ美術館ほか)などによって、日本の現代美術作品が海外で紹介され、欧米の美術市場で取り引きされていくことになる。
この流れのなかに、写真家・荒木経惟も入ってくる。
荒木は、個展「アクト・トーキョー1971-1991」(フォルム・シュタットパルク/オーストリアほか)以降、海外の展覧会への出品が急増していく。
こうした時代背景のなかで、森村の作品は、木村伊兵衛写真賞の対象作品となり、受賞の可能性までもあった。
この年、豊原康久(当時36歳)・佐藤時啓(当時36歳)・森村泰昌(当時42歳)の3名が残ったうえで、どのような選考がなされたかについては、先ほど篠山の言葉にはふれたが、他の選考委員たちの言葉から明確に伺える。
「今回の候補作のなかで、惜しくも賞の選考からは漏れてしまったが、妹尾豊考さんの『大阪環状線―――海まわり』(マリア書房)にも、私は強い感銘をうけた」(長野重一)
「豊原康久氏の『Street』はここ数年のグループ展での仕事の集成と、ひとまずいえるものだ」(高梨豊)
「“佐藤時啓さんはいいですね”と言っても“彼には3年前にあげるべきだった、メルセデス・ベンツに招かれる今となっては…”という声があがる。“じゃー、森村泰昌さんでは…粋な計らいだと伊衛兵さんも喜ぶかも知れませんよ”と一歩跳んでみても、“あれほどポピュラーな人に今さら…”と情けない。(引用者中略)新人とは未知なる世界をひっさげて現れる人のことである。そのような広い意味での輝きを讃えるのか、若者への祝いの花束にとどまるのか」(奈良原一高)
「「新人賞に授与する」とする木村伊衛兵賞の本来の趣旨と、最近の受賞傾向や写真状況についての再検討の必要性が議論されましたが、この点については第20回を迎えるまでの課題とすることにしました」(藤沢正実)
こうしたなかで、この年、豊原康久が木村伊兵衛写真賞を受賞した。
東京の街路で無名の女性たちをモノクロ写真で撮らえた写真集は、選考委員・高梨豊の「東京人」を思い起こさせるだろう。
このとき、篠山は、任期終了を理由に、1988年から務めていた選考委員をしばらく離れることを選んだ。
その森村は、写真評論家の飯沢耕太郎編『日本の写真家101』(2008/新書館)の1人に入り込んでいる。
同じ頃、日本をテーマにした写真作品を作り始め、三島由紀夫が陸上自衛隊を訪れ、自決した際の演説映像にも入り込んだ(2006-)。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
『アサヒカメラ』(1994/朝日新聞出版)
森村泰昌『着せかえ人形第1号』(1994/小学館)
水戸芸術館現代美術センター企画『12人の挑戦 大観から日比野まで』(2002/茨城新聞社)
飯沢耕太郎監修『カラー版 世界の写真史』(2004/美術出版社)
森村泰昌『美術の解剖学講義』(1996/平凡社)
「Clippin JAM」クリエイター・ファイル50 森村泰昌 インタビュー(2011/ジャム・アソシエーツ)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな
モデル小説家を造る
<第5章 そして作家が消えた>
---1 小説家が消えた―――キャラクターから始まる文芸の加速
②―――後発・マガジンハウス発 モデル小説家・椎名桜子の登場
椎名桜子は、少女時代にモデルの経験を持つ。
成城大学在学中の22歳になった、1988年、『家族輪舞曲(ロンド)』(マガジンハウス)で小説家デビューする。
学生時代に書いた80枚の小説が元だったという。
当時、芥川龍之介賞最年少受賞は、丸山健二、石原慎太郎、大江健三郎の23歳であり、22歳には特別な意味があった。
『家族輪舞曲』では、愛人のいる父親とそれを見てみぬふりをする母親とのあいだで暮らす、17歳の少女の心の機微が描かれた。
単行本の表紙は、桜自身のロングショットのモノクロポートレイトが飾り、見返しには、衣装の情報が記された。
スタイリスト 野口佳香
ヘア&メイクアップ 宮崎隆行
撮影 磯谷良行
ワンピース¥42,000/プーダドゥーゼ 03・475・0511/
シャツ¥15,000/カミングスーン 03・479・2027
こうした都市風俗を強調した試みは、田中康夫の文藝賞受賞作『なんとなく、クリスタル』(『文藝』初出/1980/河出書房新社)の先行が思い起こされるだろう(単行本化の翌年ベストセラーの2位。松竹が松原信吾監督で映画化。サントラ盤はCBS・ソニー)。
『家族輪舞曲』では、さらに丁寧に、衣装を提供した店舗の電話番号も掲載されている。
椎名は、小説家デビューした年、ワープロのCMに出演。
「ワープロで小説を書く学生作家」と表記された。
『家族輪舞曲』は、翌年、映画化され(配給・東映クラシックフィルム)、椎名は脚本・監督も務めた。
さらにこの年、栄養食のCMに出演。
映画撮影の様子がもちいられ、「映画監督」と表記された。すでに見てきたように、自身の小説を、自ら監督を務め、映画化することは、石原慎太郎、村上龍、池田満寿夫などと同様の例になる。
被写体であったモデルが小説を書く。
すでに『月刊カドカワ』でもふれたが、そこで浮かび上がる事柄には、マガジンハウスにおいて、先行事例がある。
『家族輪舞曲』発行元のマガジンハウスは、女性ファッション雑誌『an・an』(1970年創刊)の発行元になる。
フランスの女性雑誌『ELLE』日本版として創刊された『an・an』では、思想家・吉本隆明が、ファッションブランド、コム・デ・ギャルソンを着る誌面「現代思想界をリードする吉本隆明の「ファッション」」を制作した(1984)。
このページについて、思想家・埴谷雄高が「「ぶったくりの商品」のCM画像に(引用者中略)吾国の高度資本主義は、まことに「後光」が射す思いを懐いたことでしょう」と物言いをつけた。
この論争に深くは立ち入らないが、この記事を掲載した前年、『an・an』の版元は、平凡出版からマガジンハウスとカナタカに変更。
平凡社の看板雑誌だった男性雑誌『平凡パンチ』は、その4年後に廃刊している(1988)。
その廃刊の年に、入れ替わるように女性雑誌『Hanako』を創刊し、マガジンハウス初の書籍部門への取り組みが始まった。
その最初期の文芸が、秋元康、椎名誠、林真理子に続く、椎名桜子の小説『家族輪舞曲』だった。
椎名の一連の動きは、当時、椎名の事務所の社長・六塔智美とともにマガジンハウス副社長・甘糟章が手がけた。
その直前、先行する動きがあった。
椎名の小説出版と同年、吉本隆明の娘・吉本ばななが『キッチン』(福武書店)で、日本大学・芸術学部卒業直後、23歳で小説家デビューする。
初出は、福武書店(現・ベネッセコーポレーション)の文芸雑誌『海燕』(河出書房新社『文藝』から移り寺田博が1982年創刊)で、前年、海燕新人文学賞を受賞していた。
祖母に育てられた孤独な女子大学生が、知人で、妻の死後に性転換した父とその息子の家で暮らすこの物語は、単行本化の翌年、ATG出身でもある森田芳光監督で映画化された(製作・光和インターナショナル。配給・松竹)。
この年、ベストセラー(出版指標年報)は吉本一色となる。
1位『TUGUMI』(中央公論社)2位『キッチン』(福武書店)5位『白河夜船』(福武書店)6位『うたかた/サンクチュアリ』(福武書店)7位『哀しい予感』(角川書店)と、ずらりと吉本作品が並んだ。
吉本は、その後も、多数の小説を発表している。
イタリア人のジョルジョ・アミトラーノ翻訳のイタリア語版「Kitchen」(1991/フェルトリネッリ)から火がつき、世界各国でも翻訳されていく。
一方、椎名は、『家族輪舞曲』に続いて、マガジンハウスから『おいしい水』(1990)発表後は、小説は発表していない。
このブロックの終わりに、再び『月刊カドカワ』についてふれておきたい。
『月刊カドカワ』では、写真家・横山正美がポートレイト撮影を手がけた。
元・日本航空国内線の客室乗務員から写真家に転身。
横山は、『月刊カドカワ』において、各界の夫婦72組のカラーポートレイト、村松友視の文を添えた著名人26名のモノクロポートレイトを手がけた(1989-91)。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
椎名桜子『家族輪舞曲(ロンド)』(1988/マガジンハウス)
埴谷雄高「政治と文学と・補足 吉本隆明への最後の手紙」『海燕』(1985/福武書店)
「椎名桜子を育てた六塔智美(モダンタイムス社長)独占インタビュー」(『週刊テーミス』1990年4月4日号)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな