日本初 文芸家の写真展は紀伊国屋書店で開催

<第1章 文芸家ポートレイト/文学賞事始>

---2 ライカ登場 編集者VS写真家

芥川龍之介がこの世を去った6年後、一人の写真家の名前が世に出るきっかけとなる展覧会が銀座で開かれた。

会場には、多くの文芸家のポートレイトが展示された。

“円本”では<全集>という形式で文芸家のキャラクター化が行われたが、ここでは、<写真展>によって行われた。

―――木村伊兵衛「ライカによる文芸家肖像写真展」開催

 

木村伊兵衛は、東京出身。

子供の頃からカメラに興味を持ち、花王石鹸(現・花王)の広告部で、カメラマンとして働く。

木村32歳となる1933年、野島康三(写真家)・中山岩太(写真家)・伊奈信男(写真評論家)らとの同人写真雑誌『光画』(聚楽社・光画社)にポートレイトを掲載する。

 

高田保(劇作)、横光利一(小説)、佐藤春夫(詩・小説)、林芙美子(小説)、杉山平助新居格(評論)、板垣鷹穂(美術評論)、長谷川如是閑(ジャーナリスト)、岩波茂雄(出版)、山田耕筰(音楽)ら文芸家31名を撮らえた。

 

雑誌掲載の年、木村は、紀伊国屋書店・銀座支店のギャラリーで「ライカによる文芸家肖像写真展」を開催する。

これが木村の写真家として最初のまとまった仕事になった。

 

木村は、文芸家とカメラを重ねて、こう述べる。

文芸家の神格化の話でもある。

 

牛のように重々しい写場用カメラが、瞬間的に閃き出る人間(被撮影者)の個性なり性格なりを把握すべく、カメラマンの意志と神経のままに動くという事は殆ど不可能である。

殊に文人、画家、音楽家、評論家など、一般に芸術にたずさわる人々は、日常普通の人人とは異なった精神生活を営んでいるのだから、これを普通の写場用カメラで撮影する時は、その貧しい結果を、殆ど予見することが出来るのである。

 

それ以前にも、文芸家のポートレイトとしては、小川写真館(千代田区)を営んだ小川一真の撮影による夏目漱石のポートレイト(1912)などがあるが、その多くは、写真館や大型カメラによる撮影だった。

 

木村が撮影でもちいたのは、ドイツ製のカメラ・ライカだった。

現在でも多くの愛好家を持つこのカメラは、それまでの大型カメラに対して小型で軽量、連続撮影も可能にした画期的なものだった。

1925年の市販から5年後、木村は、このカメラを手に入れている。

 

ライカは、木村に新たな撮影方法をもたらした。

 

小型カメラによれば、在来の肖像写真の様に、大きな機械を被写人物の鼻さきへ突き付けて、被写意識を刺戟し、その上美しく見せる為めに無理なポーズを強いたりして硬直した人物写真が結果される弊害も除かれ、被写人物の表情を通してにじみ出る性格をとらえた、瞬間撮影による人物写真を作る事が出来たのである。

 

文芸家たちの撮影は次のように行われた。

被写体となる人物を数名で取り囲み、あちらこちらから話しかける。

木村は、ライカで、その受け答えに動く瞬間を撮影した。

このとき、照明も意識されないよう小型の手持ち照明をもちいた。

その結果、被写体の一瞬の隙をついた表情を撮えることとなった。

 

そこには、木村のある考えがあった。

 

これが単なる肖像写真と違っている点は、報道写真的要素が加わっていることである。

人に知らせる場合には、写された人の性格や感情の動きまでがはっきりつかめていなければ、真実を伝えたことにならないからである。

 

ここで、木村がいう「報道写真的要素」とは、木村が当時所属していた事業体・日本工房の主宰者・名取洋之助がこの頃盛んに提唱していた。

 

日本工房(拠点・銀座)は、写真家(木村)・写真評論家(伊奈信男)・デザイナー(原弘)・プランナー(岡田桑三)で構成され、木村の被写体にもなった劇作家の高田保、ジャーナリストの大宅壮一も関わっていた。

被写体の交渉は、高田と大宅が主に行い、彼らの考える文芸家が集められた。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

木村伊兵衛傑作選+エッセイ『僕とライカ』(2003/朝日新聞社

名取洋之助『写真の読み方』(1963/岩波新書

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。