写真館でも新聞社でもない独立した写真家の可能性

<第1章 文芸家ポートレイト/文学賞事始>

---2 ライカ登場 編集者VS写真家

②―――独立した写真家を目指す名取洋之助  しかし編集者に

 

日本工房を率いた名取洋之助は、実業家・名取和作(富士電機初代社長)の家に生まれた。

慶応義塾に学んだのち、ドイツに渡り、写真家として活動する。

 

帰国後、当時のドイツの主流的な考えであった「ノイエ・ザハリヒカイト(新写実主義新即物主義)」を日本に持ち込む。

日本ではまだまだ絵画的な写真が主流だったなかに、リアリズムを強調した写真によって、名取は、写真館の写真師、新聞社のカメラマン以外に、独立した写真家の存在を日本で目指した。

(日本初の日刊写真新聞『アサヒグラフ』(朝日新聞社)はすでに創刊されていた(1923-2000))

 

その最初のPR活動が、木村伊兵衛初の写真展「ライカによる文芸家肖像写真展」だった(1933)。

 

さらに、翌年、名取は、自身の写真を中心とした「報道写真展」を、木村が写真展を行った会場と同じ、紀伊国屋書店・銀座支店のギャラリーで開く。

「写真はコミュニケーションの手段」「上手に使われた写真は、筆にかわって、筆よりもはるかに強力、詳細に記述することができる」を伝えることを目的とした。

 

“ルポタージュ・フォト”という言葉を「報道写真」と訳し、その言葉が広がっていったのも、この名取の活動からだった。

 

しかし、日本工房の取り組みは、展覧会としては成功したものの、大きな広がりとはならなかった。

名取は、展覧会後すぐさまライカによるポートレイトの営業を行ったが、時期尚早だったという。

まだまだ庶民にとって写真は特別なものだった。

 

…これは成功しませんでした。個性的な写真のよさはわかってもいざ写真を撮るという段になると、多くの人々はむしろ類型的な営業用写真師の撮影を好んだからです。

 

さらに、考え方の違いから、名取を残して、木村らメンバー全員が日本工房を脱退し、

中央工房を結成する。

(中央工房はのちに東方社へと発展。陸軍参謀本部意向で、ソ連の対外宣伝雑誌に触発されて始まった『FRONT』を創刊。カメラ資材の管理も行ったことから、木村伊兵衛の神格化へとつながっていく)

 

分裂後、名取は、第2期日本工房を始める。

当時、グラフジャーナリズムとして大きな影響を及ぼしていたアメリカのグラフ誌『LIFE』(1936年創刊)を目指し、4ヶ国語を併用した対外文化宣伝雑誌『NIPPON』(出資は民間の鐘紡)の編集者となっていく。

第2期メンバーには、戦後、タイム・ライフ社と契約する三木淳、日本デザインセンターを創立する亀倉雄策らが所属した。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

名取洋之助『写真の読み方』(1963/岩波新書

田村茂『田村茂の写真人生』(1986/新日本出版社

飯沢耕太郎『日本の写真家101』(2008/新書館

白山眞理・堀宜雄編『名取洋之助と日本工房[1931‐45] 』(2006/岩波書店

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな