直木三十五賞と芥川龍之介賞 誕生

<第1章 文芸家ポートレイト/文学賞事始>

 --3 人名を冠した文学賞創設―――直木三十五賞芥川龍之介賞

②―――通俗文芸派・菊池寛の親友  芥川龍之介直木三十五

 

菊池寛は、『文藝春秋』創刊から13年後、直木三十五賞芥川龍之介賞を創設する。

その理由は、菊池の歩みから知れる。

 

菊池は、高松の下級士族の家に生まれ、新聞小説に夢中になる子供だった。

1899年(明治32年)、明治政府は、図書館令を公布する。

国民の知識を高めるため、市町村に公共図書館の設立を促した。

それから6年後、高松市に図書館ができると、菊池は図書館の蔵書を片っ端から読んでいく。

 

日本初の中学教員の養成機関・東京高等師範学校への入学を機に東京へ出てからも、本読みの生活は変わらず、上野図書館大橋図書館(博文館による私設図書館)、日比谷図書館へ通う日々を送る。

 

第1高等師範学校へ再入学後、菊池22歳のとき、芥川龍之介久米正雄と出会い、同人文芸雑誌『新思潮』に参加。

2人とはのちに生涯の友となる。

この頃、菊池は、井原西鶴オスカー・ワイルドバーナード・ショーなどを読み、戯曲的な感覚を身につけている。

それは芥川と出会ったことも大きかったのだろう。

菊池は、芥川について次のように語っている。 

 

芥川くんは、天才だ。僕は、秀才だから天才の歩む道を邪魔してはならなかった。

 

京都帝国大学(現・京都大学)に移った菊池は、上田敏夏目漱石の後輩)に師事。

卒業後は日刊新聞『時事新報』(福沢諭吉創刊)の記者となった。

 

この新聞記者時代、愛人と財産を持って家族を捨てた父が20年ぶりに帰宅する戯曲「父帰る」を『新思潮』に発表(1917)。

作者自身をモデルに芥川や久米への対抗心を描いた「無名作家の日記」を『中央公論』に送ったところ編集長の滝田樗陰に採用され(1918)、文壇の仲間入りをした。

 

菊池は、文芸家としての自信を持つと『時事新報』を離れる。

その後は、芥川の紹介で、当時芥川が客員を務めていた『大阪毎日新聞』に同じ立場で関わる。

芸道に行き詰った歌舞伎役者・坂田藤十郎が人妻の心をもてあそぶことになる戯曲「藤十郎の恋」(1919)、初恋を引き裂かれたことで男たちをもてあそぶようになった未亡人を描いた小説「真珠夫人」(1920)などを同紙に発表し、人気文芸家となった。

このとき、戯曲「父帰る」は、市川猿之助(2代目)によって新富座で舞台化もされている。

さらにその人気から、全4巻の『菊池寛全集』(1921-22)も春陽堂から刊行された。

 

人気文芸家となると菊池は、著作権の主張など、文芸家たちの地位向上のため、小説家協会の設立に務める(1921)。

そこには、菊池の文芸に対する態度がある。

 

…私は文壇に出て数年ならざるに早くも通俗小説を書き始めた。

私は、元から純文学で終始しようと云う気など全然なかった。

私は、小説を書くことは生活のためであった。

青年時代を貧苦の中に育ち、三男であるが没落せんとする家を何うにかしなければならぬ責任があった。

(引用者中略)清貧に甘んじて立派な創作を書こうという気は、どの時代にも、少しもなかった。

 

直木三十五との出会いは、「真珠夫人」の連載中だった。

 

直木は、大阪生まれ。

貸本屋、できたばかりの大阪図書館(1904年開館/現・大阪府中之島図書館)へ通い、講談本に夢中になる子供時代を過ごす。

早稲田大学・高等師範部(現・早稲田大学教育学部)中退後、春秋社に参画。

トルストイ全集』(1918)など主に著名な外国文芸家の全集を企画・販売を行った。関東大震災後は、大阪に戻り、プラトン社に勤務。

文芸雑誌『苦楽』を編集した。

 

美術文芸運動も行い、運動の宣伝を目的に、菊池を大阪の講演会に招いた。

以来、2人は親友となった。

直木が、映画監督・牧野省三とともに映画製作を目的とした連合映画芸術家協会(奈良)を設立(1925)した際には、菊池は文芸部として関わっている。

 

その後、直木は映画を離れ、時代小説に本格的に取り組んでいく。

週刊朝日』連載「由比根元大殺記」、『國民新聞』(現・東京新聞)連載「黄門廻国記」、『東京日日新聞』(現・毎日新聞)連載「南国太平記」などを発表している。

 

戯曲・小説ともに取り組んできた菊池は、劇作家協会と小説家協会を合併し、日本文藝家協会を発足させている(1926)。

菊池にとって自然の流れだった。

翌年には、戯曲「父帰る」が松竹キネマによりサイレント映画化もなされている(監督・野村芳亭)。

 

そして、直木が結核性脳膜炎によって47歳で亡くなった翌年の1935年、菊池は、直木三十五賞芥川龍之介賞を創設した。

 

直木を記念するために、社で直木賞金というようなものを制定し、大衆文芸の新進作家に贈ろうかと思っている。

それと同時に芥川賞金というものを制定し、純文芸の新進作家に贈ろうかと思っている。

これは、その賞金によって、亡友を記念するという意味よりも、芥川直木を失った本誌の賑やかしに亡友の名前を使おうというのである。

 

白井喬二によれば、当初、菊池寛賞として話が進んでいたのを久米正雄がたしなめ、直木賞芥川賞の両賞へと至ったというが、これが、直木賞芥川賞が創設される前年の菊池の言葉になる。

あくまで直木がきっかけだった。

 

「亡友を記念するという意味よりも…本誌の賑やかし」と語った菊池だが、芥川が亡くなったときは遺影の前で人目もはばからずに号泣し、直木が亡くなったときは、直木の娘の父なし子の里親探しに奔走したといい、雑誌を売らんかなという考えだけでなく、文芸家たちの地位向上と生活の安定は、菊池のなかでずっと流れていた。

 

直木没後、改造社から全21巻の全集が(1934-35)、芥川没後は、すでに岩波書店の全8巻のものが出ていたが(1927-28)、この時期、岩波書店から改めて廉価版として全10巻の全集が刊行された(1934-35)。

直木三十五賞芥川龍之介賞は、こうしたなかでの創設でもあった。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

菊池寛『作家の自伝10 菊池寛』(1994/日本図書センター

菊池寛『菊池寛 話の屑籠と半自叙伝』(1988/文藝春秋

植村鞆音『直木三十五伝』(2005/文藝春秋

白井喬二『さらば富士に立つ影 白井喬二自伝』(1983/六興出版)

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな