小説家のイメージは無頼派写真が増幅した

<第2章 顔をさらすから身をさらすへ>

---1  文芸家ポートレイトが文芸雑誌の連載企画に

戦後、復興期。

文芸家を撮影した企画が、複数の出版物のなかで始まる。

①――新潮社の戦後復興“文士シリーズ”と林忠彦  ~新戯作派から無頼派へ~

 

1947年、新潮社は、のちに中間小説雑誌と称されていく『小説新潮』を創刊する。

先行した文芸雑誌『新潮』(1904年創刊)に対して、エンターテインメント色の強い誌面となり、翌年から始まった巻頭グラビア“文士シリーズ”はそのひとつになる。

撮影は、写真家・林忠彦が手がけた。

 

山口県の林写真館の息子として生まれた林は、名取洋之助の提唱していた“報道写真”が盛り上がっていた東京に憧れ、上京。

オリエンタル写真学校で学ぶ。

卒業後、東京光芸社に入社した頃、時は戦時下に入り、当時の多くの写真家と同じように戦地で国策写真の撮影に従事する。

 

戦後、中国引き揚げ者として帰国すると、世は雑誌の復刊ブームだった。

林は、婦人雑誌『婦人公論』中央公論社)をきっかけに、多くの雑誌社の仕事を受け持つなかで、出版社に近い連絡先として選んだのが、銀座のバー・ルパンだった。

文芸家たちが集るこの店の常連になったことが転機となった。

林28歳の頃になる。

 

最初に撮影した文芸家は、『夫婦善哉』(創元社)で人気文芸家となっていた織田作之助だった。

ルパンで、皮ジャン姿でたばこを吹かす織田の姿を、林は撮影する。

このとき、織田を撮影する姿に自分もと声をかけられ、撮影したのが太宰治だった。

カウンター席に足を上げた洋装姿の太宰をカメラに収めている。

 

林が撮影した日は、『文学季刊』と『改造』のため、織田と太宰、坂口安吾の鼎談が行われており、3人が意気投合した日でもあった。

このとき坂口が、ただの物語作者としての“戯作者”である大切さを説いたことで、“新戯作派”のイメージを生み出していく。

 

その後、林は、坂口と飲み友達となり、坂口の自宅で撮影を行うことになる。

坂口といえば、座敷で散乱する原稿に囲まれ、ペンをとる姿を思い浮かべるであろう、あの写真になる。

 

やがて林の噂を聞きつけた、新潮社の編集者・小林博が声をかける。

林が撮影した坂口の写真を見て、“文士シリーズ”の企画がすぐに決定した。

 

林は、自身の写真について、こう述べている。

 

たしかに当時、そういう写真がなかった。

作家の写真というと、せいぜいポートレートの延長ぐらい。

雰囲気をロングで入れて、そのなかに作家を置くという手法は新鮮だった。

それをなぜ僕が偶然やったかというと、写真館の生まれでポートレートの技法をかじっている。

報道写真をやったので、ニュースなんかの環境を撮ることにも敏感。

それをミックスしてね。

作家らしい雰囲気のなかに主人公を置くというセッティングをした人物写真を始めたわけです。

 

「作家らしい雰囲気」との考えのなかで林が撮影した“文士シリーズ”の第1回目は、太宰治坂口安吾石川淳の3人となった。

織田は、その前年に結核のため33歳ですでに亡くなっていた。

 

不幸は続く。

太宰は“文士シリーズ”第1回目の年、38歳で自殺する。

その年、前年に刊行されていた太宰の『斜陽』(新潮社)はベストセラーの1位(出版指標 年報発表)となっている。

さらに、太宰に心酔し、太宰と交流もあった池谷信三郎賞受賞者・田中英光は、太宰が亡くなった翌年、36歳で自殺している。

 

田中は、林が撮影したバー・ルパンでの太宰の写真に憧れ、太宰と同じカウンターでの撮影を希望した。

林は、織田も太宰も撮影後すぐに亡くなったことから拒否し、別のバーで撮影を行った。

それでも満足した田中は、数日後、太宰の墓の前で自ら命を絶った。

 

当初は、“新戯作派”と呼ばれていた織田・太宰・坂口・石川だったが(文芸評論家の林房雄による)、太宰が亡くなった年、太宰論のなかで、“無頼派”という呼称が用いられた(文芸評論家の亀井勝一郎による)。

坂口安吾が亡くなった年(1955)には、文芸評論家の臼井吉見は「無頼派の消滅」(岩波書店『世界』掲載)を書いている。

 

そんななか、林の写真も意味を帯びていくことになる。

林が撮影した坂口安吾の座敷での写真は、“戦後闇市派”を名乗った文芸家・野坂昭如のなかで、“小説家”のイメージを決定づけた。

 

いまだに僕なんかの書斎のモデルというのは、あの、林忠彦さんが撮った有名な写真なんですね。だから、僕はピースしか吸わないし、それで、今で言えばあれはTシャツですね。

それで、カメラのほうを見上げているあの周辺の乱雑さ、あれが僕なんかにとって、一番あるべき姿としての小説家、坂口安吾だったですね。

 

“文士シリーズ”は2年間の長期連載となり、同様の企画は20年近く続けられることとなった。

しかし、その一方で、林の写真には、「相手が有名なだけ」(海部誠也)「いちいち雑誌に合わせることはない」(土門拳)という声もあった。

 

坂口安吾が亡くなった1955年、『婦人公論』40周年記念となったこの年、林は、永年功労で表彰された。

37歳の年だった。

翌年、林の特集記事を組んだ写真雑誌『アルス』は、次のように書いた。

当時の写真家の位置を教えてくれる。

 

日本ではグラフ・ジャーナルは貧困を極め、活躍する場が少ない。

たとえあったにせよ、フリーの作家にとっては狭き門である。

しかもジャーナリズムの写真に対する無理解は、カメラマンは『写真屋』であり、いわばカット描きと同等な地位にしか見ようとしない。

決して評論家や、作家なみに扱おうとしない。

こうした現状の中で、フリーランサーである林忠彦氏がジャーナリズムから表彰されたということは、実に大変なことなのである。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

岡井耀毅『評伝 林忠彦 時代の風景』(2000/朝日新聞社

野坂昭如坂口三千代「動乱期に坂口安吾<特集>」『すばる』(1990/集英社

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな