戦後の"漫画"メディアブームが写真家をキャラ化する

<第3章 メディア化する写真家と非文壇の形成>

---1 表舞台に立つ写真家続々と―――キャラ化・私化

山岸章二が編集部員、編集長時代の『カメラ毎日』(毎日新聞社)に反発した写真家たちは、少なくなかった。

山岸の部下だった西井一夫は、「彼は、写真家とは仕事を超えて付き合い、彼らの私生活にまで踏み込んで関係しようとするところがあり、これに対してはこれを嫌う者とそうでない者の差が極端に出た」と語る。

その影響力から、山岸とは距離をとり、写真家自身で居場所を作っていくことにもなった。

これまでふれてきた、木村伊兵衛土門拳、田村茂、高梨豊細江英公とは異なる時期へと入っていく。

①―――漫画になった写真家・篠山紀信

 

篠山紀信は、日本大学芸術学部・写真学科と東京綜合写真専門学校で平行して学ぶ。

日本大学在学中、広告専門制作会社・ライトパブリシティの写真部に入社し、次々と賞を受賞する。

ライトパブリシティは、各企業のデザイン部か広告代理店の社内制作部が広告デザインを手がけていた時代、日本で初めての広告専門の制作会社だった(1952年設立)。

 

篠山は、第1回日本広告写真家協会展・公募部門で写真家協会APA賞(1961/「ミステリーのためのポスター試作」)、ADC銀賞(1965)、日本写真批評家協会新人賞(1966/「偏執狂的習作」・『カメラ毎日』連載「アド・バルーン」)と受賞し、フリーとなった(1968)。

28歳の年になる。

この頃、三島由紀夫の「聖セバスチャン殉教図絵」(澁澤龍彦責任編集の天声出版の雑誌『血と薔薇』掲載)と未刊となった三島の写真集『男の死』(ADは日本デザインセンター出身の横尾忠則)も撮影している。

 

『カメラ毎日』とは、その後も、山岸章二編・三島由紀夫序文、カラーとモノクロ写真が混在した『篠山紀信と28人の女たち』(1968/毎日新聞社)、アメリカのカリフォル州にある世界最大級の乾燥地帯デスヴァレーで3人のヌードモデルを撮影した「死の谷」を発表するなど関係が深かった。

のちに『NUDE』(1970/毎日新聞社)に収録された「死の谷」では山岸は現地に同行するなど関係は密だったというが、西井によれば、1970年代に入り、篠山は山岸との縁を切ったという。

 

入れ替わるように篠山は、男性向け週刊誌『週刊プレイボーイ』(1966年創刊)のグラビア、芸能雑誌『明星』の表紙(1971-81)などを手がけていく(ともに集英社)。

篠山といえば、あのもじゃもじゃの髪型がイメージされるが、フリー後、赤塚不二夫の漫画『天才バカボン』(1967-78連載)に、決定的瞬間を求める「篠山紀信君」として描かれる(1973)。

篠山は、撮る側から描かれる側になった。

 

その3年後、篠山は、国際的な美術展、ヴェネチア・ビエンナーレの出品作家として選出される(1976)。

日本を代表する写真家として、日本の家を撮影した写真を展示した(日本館コミッショナー・中原祐介、会場構成・磯崎新)。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

西井一夫『写真編集者 山岸章二へのオマージュ』(2002/窓社)

シノヤマネットSalon

『天才バカボン』(1967-78連載/講談社

和田誠『銀座界隈ドキドキの日々』(1993/文藝春秋

水戸芸術館現代美術センター企画『12人の挑戦 大観から日比野まで』(2002/茨城新聞社

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな