戦後の"コピー機"メディアブームが写真家をキャラ化する
<第3章 メディア化する写真家と非文壇の形成>
---1 表舞台に立つ写真家続々と―――キャラ化・私化
荒木経惟は、高校時代より独学で写真撮影を行い、写真雑誌『日本カメラ』(1950年創刊/日本カメラ社)で上位入選者だった。
当時、写真を学べる日大・東写短・千葉大の3つの大学のうち、学費の安い国立の千葉大学工学部・写真印刷工学科を選んだ。
入学すると化学技術の場だったが、卒業後、広告代理店・電通の写真部へ入社し、広告写真を手がける。
在職中の24歳の年、大学の卒業制作「さっちん」で第1回太陽賞を受賞する(1964)。
平凡社がグラフ誌『太陽』の発刊を記念して創設した賞だった。
審査員には、木村伊兵衛、伊奈信男、羽仁進らの写真関係者だけでなく、日本画家の東山魁夷、文芸評論の中島健蔵、伊藤整らが名を連ねた。
その後、『ゼロックス写真帖』を制作する(1970)。
電通の藤岡和賀夫のコピーによる「モーレツからビューティフルへ」のCM広告が打たれていた富士ゼロックスのコピー機を使い、撮影した写真をコピー(当時、試作品が電通にきたばかりだったという)。
それらを冊子とした限定70部の私家版の写真集だった。
その後も、「複写集団ゲリバラ」を結成し、私家版の写真集『水着のヤングレディたち』を出した(1971)。
荒木は、当時の状況を次のように述べている。
その頃、カメラ雑誌に載せてもらうには頭さげにいかなくちゃならなかった。
山岸天皇(『カメラ毎日』編集者の山岸章二)がおれを通さなきゃ載せないっていう時代だから。
そういうのおれ、あんまり好きじゃないんだよね。『プロヴォーグ』(*引用者注:中平卓馬・高梨豊・森山大道らが1968年に創刊した写真同人誌)はいいなって思ってたんだけど、電通にいるんじゃだめだという感じがあるじゃない。
広告会社にいるやつが作品とか作家ぽいことやる資格はないから。
だから六〇年代はカッカしてたね。みんな元気よくやってるのに、冷蔵庫の写真なんか撮らされていたんだから。
荒木は完成した写真集を、永六輔、小沢昭一、寺山修司、赤瀬川原平など著名人に送っている。
人選は『週刊サンケイ』(産業経済新聞社)の当時の編集長・下川耿史が行った。
さらにその後、荒木は、代表作のひとつとなった、妻との日常生活を赤裸々に撮らえた写真集『センチメンタルな旅』を限定1000部で自費出版(1971)。
紀伊国屋書店の自費出版コーナーに置いてもらうため、自ら、社長の田辺茂一に頼みに行っている。
「さっちん」では下町で遊び回る子供たちを、『ゼロックス写真帖』ではスナップ的に撮り続けた身近な題材を、「複写集団ゲリバラ」では便所や水着を来た素人女性を、とすべてアンチコマーシャルから出発した内容だった。
『センチメンタルな旅』が私小説といえる内容になったのは、当然の結果だった。
『センチメンタルな旅』を発表した翌年、写真家として著名になり始めた荒木は、電通から進退を問われ、退社を選んだ。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
大竹昭子『眼の狩人 戦後写真家たちが描いた軌跡』(1994/新潮社)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな