”活字の端っこ”から文壇を通り越す
<第3章 メディア化する写真家と非文壇の形成>
---2 非文壇の形成―――ラジオ、テレビ、週刊誌、都市
1970年、三島由紀夫が割腹自殺した。
翌年、写真家・林忠彦は、表紙ポートレイトにたばこをくゆらす松本清張・川端康成の題字『日本の作家 林忠彦写真集』(主婦と生活社)を刊行。
文芸家たちが振り返られる。
後発の写真家たちは、写真雑誌という媒体からはみ出し始めていたが、文芸家でも、石原慎太郎、三島由紀夫といった文壇から活躍の場を広げていく者とは違った、独自の取り組みを行っていく者が登場する。
①―――放送作家・週刊誌コラムニストから直木賞受賞者 歌手へ 野坂昭如
野坂昭如は、養父の元で育てられるなか、神戸大空襲を経験。
ぽん引き、泥棒といった暮らしを送る。
早稲田大学へ入学するも、仕送りを使い果たし、さまざまな職に就く。
大学在学中、ラジオ、テレビの世界で主に作曲家として活躍した三木鶏郎の制作集団「冗談音楽」で働き(先輩には永六輔)、CMソングやテレビ番組内での作詞(おもちゃのチャチャチャなど)、テレビ台本を手がけ、売れっ子放送作家となる。
その頃、シャンソン歌手を目指しクロード・野坂としてや、野末陳平と漫才も行い、舞台にも立った。
週刊誌創刊ブームを迎えた時代、野坂は、『週刊コウロン』(中央公論社)の編集者・水口義朗(のちにテレビ朝日系のワイドショー『こんにちは2 時』のキャスターへ転身)から放送業界の内輪話を教えて欲しいとの電話を受ける。
以降、『週刊コウロン』『週刊現代』『週刊文春』など当時創刊されて間もない週刊誌にコラムやルポを発表していく。
戦前からの歴史ある『婦人画報』ではTV評論も行う。
連載がたまると、『週刊コウロン』の連載をまとめたコラム集『現代野郎入門』(久保書店)、『週刊現代』の連載を元にした編著『プレイボーイ入門』(荒地出版社)を出版。
プレイボーイ評論家としてテレビ出演も行っている(1962)。
このように、テレビ、週刊誌といった当時のニューメディアを活動の拠点とした一人が、野坂だった。
そんな野坂と文壇との接点となったのが、エロ映画になる。
文芸家たちの集まる新宿のバーで生まれたつながりから、野坂の自宅で上映会を行った。吉行淳之介、遠藤周作、阿川弘之、近藤啓太郎、杉森久英、中村真一郎、丸谷才一、梶山季之、村山健一らが集まった。
同じ頃、石原慎太郎・開高健・大江健三郎らの「若い日本の会」に対抗し、「活字の端っこ」にいる人たちの交流の場も設けた。
ミステリー雑誌『ヒッチコックマガジン』(宝石社)の編集長・中原弓彦(小林信彦)、スポーツ誌の芸能記者、週刊誌記者、シナリオライターらを集めた。
野坂は、33歳のとき、本格的に小説に取りかかる。
水口の手引きで、すでにエッセイを発表していた中間小説雑誌『小説中央公論』に、最初の小説となる「エロ事師たち」を連載する(1963)。
大阪を舞台にエロを生業として生きる男の人生を、大阪弁で描いた。
この時期、野坂は、直木三十五賞受賞者・柴田錬三郎に、『週刊文春』誌上で、“TVの寄生虫”と批判されている。
小説家から放送作家へと転身した放送作家協会会長・大林清から、協会の除名も公言される。
結果、野坂を含む5人が同時に退会したが(永六輔・前田武彦・野末陳平・城雄介)、野坂は「小説で生きていく」と強く思ったという。
『小説中央公論』は半年ほどで休刊し、「エロ事師たち」は当初話題にならなかった。
けれども、三島由紀夫が『新潮』で、吉行淳之介が『文藝』(1933年改造社創刊。のち河出書房新社が復刊)で賞賛すると注目されることになる。
結果、加筆したのち、講談社から単行本化されることとなった(1966)。
刊行は、『「エロ事師たち」より 人類学入門』のタイトルとなった映画化に合わされた。
主演は小沢昭一、監督は今村昌平、配給を日活が手がけ、独立プロ運動が高まるなかで、今村は日活を辞め、この映画が今村プロ第1作にもなった。
『エロ事師たち』は、「The Pornographers」のタイトルでアメリカのクノップス社より刊行される(1968)。
三島由紀夫の自宅パーティで、クノップス社のハロルド・シュトラウスを紹介されたことがきっかけだった。
修道士マイケル・ギャラガーが英訳した。
その後、野坂は、『オール讀物』(1930年創刊/文藝春秋)、『小説新潮』(1947年創刊/新潮社)、『小説現代』(1963年創刊/講談社)の当時中間小説誌の御三家と称された雑誌へ執筆の場を移行する。
『エロ事師たち』刊行の翌年、野坂は、神戸大空襲下の懸命に生きる兄と妹を描いた「火垂るの墓」(『オール讀物』掲載)と、敗戦を体験した男を通してアメリカへ対するコンプレックスを描いた「アメリカひじき」(『別冊文藝春秋』掲載)を発表。直木賞を受賞した(1968)。
単行本の発行は、2作ともに掲載元だった文藝春秋が行った(1969)。
受賞時、野坂は、毎日新聞のインタビューでの何派か?と聞かれ、“無頼派”ならぬ“戦後闇市派”ととっさに答えている。
この年、毎日新聞社は、『新戦後派』を出版。
野坂、永、野末は、三木鶏郎の制作集団「冗談音楽」出身になる。
野坂は、直木賞受賞者となってみると、小説以外への関心が高まったという。
余興で歌ったことがきっかけで、音楽活動を再開することになる。
前年、日本コロムビア内の洋楽レーベル、CBS・コロムビアから離れて設立されたばかりの新興会社CBS・ソニーから声がかかった。
黒人霊歌のカバーと長崎県の子守唄を歌った「ポー・ボーイ/松浦の子守唄」(1969)でレコードデビューする(ジャケットデザイン横尾忠則)。
“歌う直木賞作家”で全国のキャバレーを回り、日比谷公会堂でリサイタルも開催した(1971)。
また、吉行淳之介の冗談から始まった月刊雑誌『面白半分』の編集長(1972)やCMに出演(山陽商会、サントリーなど。1974~)。
月刊雑誌『話の特集』(1965年創刊)の編集長で菊池寛の秘書を務めた父を持つ矢崎泰久の呼びかけで永六輔・小沢昭一とで中年御三家を名乗って武道館コンサート(1974)を行うなど、非文壇的な活動を拡張させた。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
文藝別冊『野坂昭如 焼跡闇市ノー・リターン』(2016/河出書房新社)
矢崎泰久『人生は喜劇だ 知られざる作家の素顔』(2013/飛鳥新社)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな