混乱する写真界の直木賞

<第3章 メディア化する写真家と非文壇の形成>

---3 写真界の芥川賞直木賞創設―――写真を選考する文芸家

④―――『カメラ毎日』の終焉と土門拳

 

土門拳賞の創設も、木村伊兵衛写真賞の創設と同じく、スムーズに進んだわけではなかった。

 

『カメラ毎日』の編集長を務めた西井一夫によれば、1970年代後半に入り、『カメラ毎日』は、部数の減少を見せ始めていたという。

その頃、若き広告写真家を積極的に起用し、一時代を築いた山岸章二は編集長を辞め、フリーとなったのち、自ら命を絶った(1979)。

山岸の後、編集長となった西井は、編集長に就任する時点で(1983)、すでに廃刊へ向けた動きがあったと明かしている。

こうした時期、土門拳賞の創設に向け、さまざまな動きがあった。

 

土門の生前、山岸は、土門拳賞の創設を持ちかけていた。

しかし、本人から生前のうちに賞の名を付されることから固辞されたという。

その後、土門が病で倒れ、昏睡状態となっていた頃、当時の『カメラ毎日』の編集長・佐伯恪五郎が毎日新聞社へ提案して採用されたという。

 

しかし、それとは別に、発案者は、第4回土門拳賞を受賞することになる江成常夫だったともいう。

毎日新聞社を経て、フリーのカメラマンとなっていた江成が、木村伊兵衛写真賞の対象作品となった「花嫁のアメリカ」の銀座ニコンサロンでの写真展(1980)で、当時、毎日新聞の出版局長だった柳路夫へ進言し、実現したという。

 

佐伯なのか江成なのか、いずれにせよ、土門が70歳の年、脳血栓を発症し(1979)、昏睡状態となっていた時期にあたる(長い昏睡状態を経て、1990年逝去)。

こうした混乱の時期に始まったのが、土門拳賞だった。

 

第1回の審査員には、写真家(渡辺義雄・三木淳)、写真評論家(岸哲男)に加えて、芥川賞受賞者・安岡章太郎と、元『カメラ毎日』の編集長として佐伯恪五郎が行った。

安岡章太郎は、第2回木村伊兵衛写真賞の審査員でもあり、文芸家の参加という木村伊兵衛写真賞と同じ方法論がとられた。

 

けれども、『カメラ毎日』は、土門拳賞が第4回目を迎えた1985年、廃刊した。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

西井一夫『20世紀写真論・終章 無頼派宣言』(2001/青弓社

柳路夫 銀座一丁目新聞「追想緑(215)」(2005年9月15日号/一ツ橋アーツ)

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな