多賀英典 登場
<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>
---2 1979 メディア間の交代劇
②―――レコード会社から独立 映画事業へ参入 キティ・フィルム
老舗の文芸出版社がスター写真家に依頼するようになった頃、映画製作に新たな企業が参入する。
戦後の映画産業への異業種参入の事例は、すでにふれた角川春樹だけに限らない。
それ以前にもテレビを拠点とした渡辺プロダクションがクレイジーキャッツの映画を中心に、ホリプロが森昌子・桜田淳子・山口百恵の“花の中三トリオ”の映画を中心に、芸能事務所が映画の製作に関わっている(ともに配給は東宝)。
そうした流れと入れ替わるように、大映は倒産(1971)。
日活はロマンポルノへ(1971)。
東宝は制作機能を5つに分社化(1971)して配給中心に。
東映は時代劇路線からテレビ放送しにくい任侠路線へと舵を切っていく(その後は、角川映画と提携・配給へ)。
松竹は『男はつらいよ』シリーズ(1969年より)の独自路線を歩んでいく。
こうした時代、映画事業へ参入した一人が、多賀英典だった。
外資系のレコード会社ポリドールのディレクターだった多賀は、井上陽水、小椋佳など当時台頭してきたフォーク系の音楽家を担当し、ヒット曲を生み出した。
そして、キティ・ミュージック・コーポレーションとして独立(1972)。
やがて、多賀は、映画製作に乗り出していくことになる。
設立メンバーには、日活出身の長谷川和彦と相米慎二らが名を連ねた。
独立プロ化が進むなか、日活を首になった長谷川は、芥川龍之介賞受賞者・中上健次の短編小説「蛇淫」(河出書房新社)原作『青春の殺人者』で、今村プロ・綜映社・ATGの制作、ATG配給により、映画監督デビューしていた(1976)。
『青春の殺人者』は、公開の年、『キネマ旬報』でその年の日本映画のベストワンに選定。
長谷川は30歳での映画監督デビューとなったが、徒弟制度がまだまだ強固で技術を独占していた映画界で、そのことも話題になった。
こうした転換期のなか、多賀は、長谷川の映画を撮るために、キティ・フィルムの設立を進めた。
けれども、キティ初の映画が生まれるまでには、時間がかかった。
相米によれば、当初、どんなプロットを提案しても、長谷川が乗らなかったという。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
古東久人編集『相米慎二 映画の断章』(1989/芳賀書店)
『ATG映画の全貌』(1979/夏書館)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな