岩波書店系 写真・映画に参入

<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>

---2 1979 メディア間の交代劇

⑥―――岩波書店とATG  良心的映画か?  娯楽映画か?

 

ここまで何度となく出てきた、日本アート・シアター・ギルド(ATG)について詳しく見ておきたい。

 

ATGは、戦前から欧米の映画の輸入を行ってきた東和商事(戦後に東和映画へ改称)を率いた川喜多長政の妻・かしこが提唱した。

東宝森岩雄が賛同し、三和興行の3社で設立する(1961)。

「世界の名作を集めて贈る」がキャッチフレーズだった。

ATG関連の映画は、主に、アートシアター新宿文化(現在その場所には角川シネマ新宿とシネマート新宿が建つ)、日本劇場の地下にあった日劇文化(現在その場所には有楽町センタービルが建つ)などで上演された。

 

こうした動きの背景には、大手とは違う、独立プロダクション化の動きもあった。

松竹・東宝大映・新東宝東映・日活の監督たちは、商業映画とは一線を画す作家性の強い芸術映画を目指し始めていた。

1958年を境にテレビの時代となり始め、映画産業の斜陽化が始まっており、低予算・粗悪品が乱発される事態に陥っていたためだった。

 

当初ATGは、芸術系の外国映画の配給・上映が主だったが、外国人映画監督と石原慎太郎監督らのオムニバス『二十歳の恋』(1963)、三島由紀夫・主演・脚本・監督『憂国』(1966)では、配給として関わる。

やがて、外国映画の輸入金額の高騰もあって、1968年を境に、洋画の紹介から、邦画の割合が増えていく。

日活から独立したばかりの今村昌平『蒸発人間』(1967)がその先駆となった。

このとき制作にあたってとられた、1千万(ATG500万+独立プロ500万)という方法が、基本スタイルとなる。

当時の大手の3分の1~5分の1、日活ロマンポルノ(300万)よりは高いという設定だった。

 

ATGで映画を手がけた監督たちを見ていこう。

羽仁進、松本俊夫実相寺昭雄寺山修司田原総一郎若松孝二らは、大手映画会社で助監督経験のないメンバー。

新藤兼人大島渚吉田喜重篠田正浩(松竹出身)、今村昌平(松竹、日活出身)、熊井啓(日活出身)、岡本喜八東宝出身)、増村保造大映出身)、中島貞夫東映出身)ら、撮影所出身のメンバーも参加している。

今村の『蒸発人間』から5年の間だけでも以上のメンバーになる。

 

ATGで日本映画の上映が上回った1968年、岩波ホール(神保町)が誕生する。

岩波ホール支配人・高野悦子岩波書店創業者の長男の妻は実姉)は、外国映画の上映が減少していくなかで、川喜多かしこの呼びかけを受け、ともに外国の名作上映運動「エキプ・ド・シネマ」を主宰する(1974年より)。

ここに、ATGと岩波の動きがつながっていくことになる。

この時期、東和映画は「東宝東和」となっている(1975)。

 

ATGと岩波、東宝と東和がつながった頃、ATGは、横溝正史原作の『本陣殺人事件』を映画化する(1975/監督・高林陽一)。

すでにふれたが、芸術系のATGが、話題の小説を原作とした、最初期の商業路線の作品となった。

続いて、五木寛之原作小説『変奏曲』(新潮社)を同タイトルでATG初のオール海外オケで映画化(1976/監督・中平康/撮影カメラマンは写真家の浅井慎平/製作は『話の特集』編集長・矢崎泰久)。

長谷川和彦監督の中上健次の短編小説「蛇淫」原作『青春の殺人者』(1976)も、この年、中上が芥川賞を受賞しており、この路線だった。

 

岩波とATGとの関わりは、さらに前史がある。

ATG映画の制作について伺い知れるため、見ておこう。

1950年、岩波映画製作所が設立される。

物理学者・中谷宇吉郎の元、科学映像の制作を目的に前年生まれた中谷研究所プロダクションが前身だった。

岩波書店とは資本関係はないが、岩波書店小林勇岩波書店の創業者・岩波茂雄の娘婿で、岩波文庫岩波新書の創刊に携わる)の「いわゆる文化映画を作る」を目的に設立された。

以後、写真、科学系テレビ番組、記録映画を主に手がけていく。

 

小林は、「上映する映画館を持っていないこと」「映画人には癖のある人物が多いこと」から、写真学校を出た若者を育てていく方針をとった。

そして制作実績を積み重ねていくため、実写によるPR映画の製作と普通写真の仕事を母体にし、普通写真の仕事は「岩波写真文庫」の創刊となった。

その中心人物として、戦前、日本工房を率いた名取洋之助が招かれた。

東松照明(第1回日本写真批評家協会新人賞受賞者)、長野重一(のち『朝日ジャーナル』嘱託)らの写真家も働き、8年にわたり、静物写真をまとめている。

 

映画制作としては、監督では、羽仁進・羽田澄子(ともに岩波写真文庫の編集から転身)、黒木和男・土本典昭小川紳介・東陽一(のちに「青の会」を結成)、田原総一郎(のちにジャーナリスト)。

文芸家としては、入江隆則、池央耿、清水邦夫らが在籍した。

そのうち、羽仁進(1963,68,72)、黒木和雄(1966,70,74,75)、田原総一郎清水邦夫(1970)、東陽一(1978,79)など、多くの人材がATGで映画を発表していく(()内はATGでの制作年)。

岩波映画製作所の出身者は、ATGを支える要因ともなっていた。

 

話を1979年に絞ろう。

ここまで見てきたように、映画『限りなく透明に近いブルー』『エーゲ海に捧ぐ』が公開された1979年、ATGでは、岩波映画製作所出身・東陽一監督作品『もう頬づえはつかない』(主演・桃井かおり)を公開する。

原作小説は、見延典子の早稲田大学・文芸科の卒業論文で、前年『早稲田文学』に掲載され、講談社が出版した。

同時期、平岡篤頼が主導する『早稲田文学』~講談社の流れで、三石由起子・田中りえが続けて小説家デビューし、“女子大生作家”ブームが生み出されていく。

この年、ATG社長・佐々木史朗早稲田大学在学中に早稲田自由劇場を設立し、卒業後はTBSへ入社。演劇界・テレビ界・映画界と渡り歩く)は、こう書いた。

 

ことに製作に関する限り、“企業”と“独立プロ”とはもはや正確な反意語とは呼べず、企業イコールメジャーという何かしらの一方的な言葉のひびきもうすれつつある。

(引用者中略)

“企業=俗流の娯楽映画”“独立プロ=良心的な映画”という二元論は既に不毛なのであり、製作の実態をうしないつつある

 

1979年、独立プロの動きも行き詰まりをみせていた。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

『ATG映画の全貌』(1979/夏書館)

朴文順/早稲田文学編集室『平岡篤頼と早稲田文学』(2014)

谷川徹三井上靖『回想 小林勇』(1983/筑摩書房

小林勇『彼岸花 追憶三十三人』(1968/文藝春秋

『私の履歴書 文化人4』より「小林勇」(1983/日本経済新聞社

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな