赤瀬川原平 登場
<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>
---3 非新聞社系写真雑誌創刊―――芸術のようなもの
②―――芥川賞受賞者・尾辻克彦/美術作家・赤瀬川源平も『写真時代』で連載
『写真時代』では、創刊2年目の年、芥川龍之介賞受賞者の連載が始まる。
美術家・赤瀬川原平になる。
赤瀬川は、武蔵野美術学校(現・大学)中退後、“ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ”(1960)“ハイレッド・センター”(1963-64)で前衛美術家として活動。
銀座の街頭で白衣を着て怪しげな清掃を行うなど、美術館のなかでの活動に留まらず、日常のなかへ表現を広げた(寺山修司への影響を思い浮かべることは容易だろう)。
千円札を本物そっくりに模倣したことで、有罪判決を受けた「千円札裁判」で一躍有名に(1965-70)。
その後は、村松友視の依頼で『海』に小説を書いたことで(1978)、文壇と交わっていく。
赤瀬川は、ペンネーム・尾辻克彦名義で『文學界』に発表した短編小説「父が消えた」(1980)で、発表の翌年、芥川賞を受賞した(受賞時41歳)。
池田満寿夫の4年後の受賞になる。
すでに、尾辻克彦名義の最初の作品「肌ざわり」で(『中央公論』掲載)、中央公論新人賞を受賞(*またしても1979!)。
文壇にとって期待の新人だった。
赤瀬川は、『写真時代』では、写真を中心とした連載を行った。
無用の長物となった建造物を撮らえ、“超芸術トマソン”と名づけた。
まったく成果を出さないにも関わらず四番を守り続けた元読売巨人軍の助っ人外国人トマソンに由来する。
『写真時代』の編集長・末井昭は、赤瀬川が講師を務めた「美学校」(神保町・1969年創立)に学んだ。
赤瀬川以外も、『写真時代』では、“昭和軽薄体”という言葉で呼ばれる「言文一致」に取り組んだ、赤瀬川門下の南伸坊、渡辺和博らが連載を持っており、編集者にも卒業生が多かった。
末井は、『写真時代』の編集方針について、次のように述べている。
カメラ雑誌なんかで、いい写真といわれるものはなぜあんなに面白くないのだろうか、という疑問があったので、写真を選ぶ基準は、わいせつなもの、面白いもの、あるいはヘンなものということにした。
ここで我々は、『カメラ毎日』の編集者・山岸章二が語った「「良い写真」なんていうものはないんだ」の言葉を思い出すだろう。
末井は、書店の奥に置かれることの多いエロ雑誌を店頭にももってこられるよう、『写真時代』の表紙にアイドルタレントを起用した(創刊号表紙・三原順子)。
創刊号はほぼ完売。
発行部数はウナギ登りに増え、同傾向のナンパ系写真雑誌ブームを生み出していくことになった。
けれども、『アサヒカメラ』は現在残るが、『カメラ毎日』も『写真時代』も今はない。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
末井昭『パチプロ編集長 パチンコ必勝ガイド物語』(1997/光文社)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな