震災をきっかけに出版された全63巻の文学全集のこと
<第1章 文芸家ポートレイト/文学賞事始>
---1 “円本”登場 文芸家をキャラ化
①―――改造社発 関東大震災が生んだ“円本” 飾られる文芸家のポートレイト
大正生まれの文芸評論家・奥野健男は、文学少女であったという母親が女子大生のとき、芥川龍之介のブロマイドを飾っていたと記している。
奥野は、文芸家の顔が広く知られていくきっかけとして、大正から昭和へと年号が切り替わる丁度そのとき、改造社が刊行した『現代日本文学全集』(全63巻/1926-31)を挙げている。
『現代日本文学全集』は、1冊1円、月1冊の配本をコンセプトにした全集だった。
小説は1冊2~10円だった時代、1冊に多くの作品を収め1円で発売。“円本”と称された。
“円本”という俗称は、当時市内1円で走っていたタクシー“円タク”に由来する。
刊行は、日本最大級の災害被害をもたらした関東大震災がきっかけだった(1923)。
火災によって多くのものが失われたが、本も燃えた。
そこで、庶民のために安く本を提供したいという思いから、『現代日本文学全集』は企画された。
改造社の編集者・藤川靖夫が発案し、社長の山本実彦が決断する。
春秋社の編集者で、「明治文化研究会」(1924年・吉野作造組織)のメンバーの一人でもあった木村毅が、チャールズ・W・エリオット(ハーバード大学学長)編纂『ハーバード・クラシックス』(全51巻/1909)を参考に編集した。
日本大学卒業後、新聞記者~新聞社社長となった山本率いる新興の出版社・改造社(1919年創業)は、創業の年、総合雑誌『改造』を創刊。
キリスト教社会運動家・賀川豊彦による、神戸のスラム街での救済活動を描いた自伝的な連載小説「死線を越えて」(1920)が最初のヒットとなる。
改造社初となったこの単行本は、賀川が労働騒動によって投獄され、新聞で大きく取り上げられたことが売り上げにつながった。
改造社は、こうして運営を軌道に乗せていた。バートランド・ラッセル(1921)、アルベルト・アインシュタイン(1922)の日本への招聘も行なった。
『現代日本文学全集』では、文学を、富裕層や知識階級といった一部のものではなく、庶民にも手が届くことが目指された。
当時、大学令と第二次高等学校令の施行による学校の増加(1919)、『大阪毎日新聞』は他紙に先駆けて100万部を突破(1921)するなど、知識を欲する大衆層は急速に広がっていた。
『現代日本文学全集』の告知パンフレット「内容見本」には、次のように書かれる。
各巻共に著書、作者の肖像、筆蹟、書斎等を写真版として巻頭に飾り、居ながら各作家に親炙することが出来るように用意してあります。
“親炙”とは、人物に親しんで影響を受けるといった意味になる。
写真版(網目凸版)が国内で実用化以降(1890)、写真は新聞や雑誌に使われるようになっていたが、このセールストークから、『現代日本文学全集』刊行開始時期(1926-31)、作者の生活、作者の顔に関心が持たれていたことが伺える。
それ以前には、芥川龍之介の顔は新聞・雑誌などを通して知られていなかったため、『講談倶楽部』(1911-62/大日本雄辯會*現・講談社)に本人を名乗る人物から電話を受け、それまで芥川とつきあいのなかった編集部は駅前で疑うことなく直接原稿を受け取った”ニセ芥川事件”が起こっていた(1919)。その数年後、『現代日本文学全集』刊行開始時期には大きな変化が起こっていた。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
朝日新聞社編『文士の肖像110人』(1990/朝日新聞社)
松原一枝『改造社と山本実彦』(2000/南方新社)
犬塚孝明・濵﨑望・荒田邦子・古閑章『新薩摩学5 雑誌『改造』とその周辺』(2007/南方新社)
『現代日本文学全集』(1926-31/改造社)
紀田順一郎『内容見本にみる出版昭和史』(1992/本の雑誌社)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな