直木賞以前に直木賞があった
<第1章 文芸家ポートレイト/文学賞事始>
--3 人名を冠した文学賞創設―――直木三十五賞と芥川龍之介賞
⑦―――もう一つの直木賞・千葉亀雄賞 大衆文芸と『サンデー毎日』
直木三十五賞・芥川龍之介賞と菊池寛賞の創設のあいだに、ある文芸賞が創設されている。
それも、人名を冠した賞だった。
直木賞・芥川賞が創設された翌年、『サンデー毎日』(大阪毎日新聞社)主催による千葉亀雄賞が創設された(1936)。
『サンデー毎日』で、大衆文芸を支援してきた千葉が亡くなった翌年になる。
千葉は、直木の先輩にあたり、早稲田大学・高等師範部を中退したのち、記者として働く。
政治評論雑誌『日本人』、日刊新聞『日本』などを経て、『國民新聞』で社会部長に。
『時事新報』でも社会部長を務めた。
『時事新報』時代には、記者に若き日の菊池寛がいた。
その後、千葉は、『読売新聞』に移り、社会部長兼文芸部長、編集局長となる。
この時期、横光利一と川端康成らが創刊した『文藝時代』を読む。
新しい時代を感じ、「新感覚派の誕生」(1924)を同人文芸雑誌『世紀』に書き、その命名者となっている。
『読売新聞』を離れると、『東京日日新聞』(現・毎日新聞)を拠点とする。
『東京日日新聞』で学芸部長・編集局長に。
『サンデー毎日』(1922年創刊)の編集長も務める。
この『サンデー毎日』で千葉は、サンデー毎日大衆文芸賞(1926年開始)の選者として力を発揮する。
直木賞が創設される9年前のことになる。
(同時期、渡辺賞もあった(1927‐29)。北海道の文芸好きの少年・渡辺安治の遺族の依頼で生まれたたこの賞では、選考委員を千葉亀雄・菊池寛ら文芸家協会の9名が担当している)
“大衆”という言葉は、白井喬二が、プロレタリア文芸の台頭に対し、仏教用語から持ってきた新しい言葉だったが、その白井の代表作の一つとなる「新撰組」は、2年前に創刊されたばかりの『サンデー毎日』に連載された(1924)。
同じ頃、白井の代表作の一つとなる、築城家同士の3世代にわたる対立を描いた「富士に立つ影」が『報知新聞』で連載され(1924-27)、白井は、同人文芸雑誌『大衆文芸』(販売・報知新聞社)を創刊するに至っている(1926)。
同人には、直木三十五、江戸川乱歩らがおり、それまでの髷物小説から新講談・読物文芸といわれ始めていたものを、“大衆”という新しい言葉で、探偵ものまで包括しようとした。
また、白井は、“円本”ブームのなか、『現代大衆文学全集』(全60巻/平凡社)も主導している(1927-32)。
こうした背景のなかで始まったサンデー毎日大衆文芸賞の第1回の当選は、角田喜久雄となった。
角田が第1回直木賞の候補者となる9年前になる。
第5回入選の木村荘十は、のちに第13回直木賞を受賞している。
このように千葉は、生まれたばかりの大衆文芸の居場所を作り、支援した。
しかし、1935年、57歳で亡くなる。
その千葉が亡くなる直前に始まったのが、直木賞と芥川賞だった。
千葉亀雄賞の第1回の選考委員は、菊池寛・吉川英治・大佛次郎が務めた。
3人は、第1回直木賞の選考委員でもあった。
千葉賞は、現代物と時代物とにわけられた。
第1回の時代物の1席は、金聖珉「半島の芸術家たち」(『サンデー毎日』掲載)。
現代物の1席は、井上靖「流転」(『サンデー毎日』掲載)となった。
その後、サンデー毎日大衆文芸賞と千葉亀雄賞は、戦争による中断をはさんだのち、サンデー毎日大衆文芸賞は1954年まで。
千葉亀雄賞は1959年まで続いた。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
読売新聞社社史編纂室『読売新聞八十年史』(1955/読売新聞社)
池内輝雄『時事新報目録 文芸篇 大正期』(2004/八木書店)
菊池寛『菊池寛 話の屑籠と半自叙伝』(1988/文藝春秋)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな