芥川賞誕生時期 もう一つの芥川賞があった
<第1章 文芸家ポートレイト/文学賞事始>
--3 人名を冠した文学賞創設―――直木三十五賞と芥川龍之介賞
⑧―――もう一つの芥川賞・池谷信三郎賞も創設
直木三十五賞・芥川龍之介賞と菊池寛賞の創設のあいだ、千葉亀雄賞創設と同じ年、もう一つ文学賞が創設されている(1936)。
それも、人名を冠した賞だった。
1933年、同人文芸雑誌『文學界』が創刊(文化公論社)される。
武田麟太郎・林房雄・小林秀雄・深田久弥・広津和郎・宇野浩二が創刊メンバーだった。
財政難から、版元が転々としたのち、菊池寛が引き受ける。
このとき、池谷信三郎賞を創設(1936)。
池谷は、東京帝国大学(現・東京大学)在学中にベルリン大学へ留学。
ドイツ時代の生活を描いた「望郷」が、『時事新報』の懸賞長編小説に第1席で当選し、文壇デビューする(1925)。
当時の『時事新報』の文芸部主任は、『文藝春秋』の同人でもあった佐佐木茂索で、選者は菊池寛・久米正雄・里見弴が務めていた。
菊池は、以来、池谷を可愛がっている。
その後、池谷は、横光や川端らの新感覚派と交流を結び、新感覚派映画連盟に参加。
また、演劇に力を注いでいく。
歌舞伎役者の河原崎長十郎(4代目)、池谷の大学の先輩で先にベルリン大学に留学していた芸術家・村山知義、大学の同窓・舟橋聖一らと劇団・心座を創設。
続けて、中村正常・舟橋聖一とバラエティ劇団・蝙蝠座を立ち上げ、戯曲を書いた。
両劇団とも、東京帝国大学の先輩・小山内薫と土方与志が設立した築地小劇場を活動の拠点とした。
築地小劇場は、ヨーロッパ劇を模とした新劇と呼ばれた演劇の拠点だった(築地小劇場には浅利慶太・和田誠ともに実父も所属)。
こうした活動のなか、池谷は、結核で33歳で亡くなった(1933)。
没後、直木と同じく改造社が全集(全1巻)を出している(1934)。
池谷没後3年後にあたる年、直木賞・芥川賞創設の翌年、池谷信三郎賞が創設された(1936)。
受賞者と受賞作は次になる。
第1回は、中村光夫「二葉亭四迷論」(『文學界』掲載)と保田與重郎エッセイ『日本の橋』(『文學界』掲載)。
第2回は、Q(津村秀夫)“映画批評の業績”。
第3回は、神西清“翻訳の業績”。
第4回は、亀井勝一郎『人間教育 ゲエテへの一つの試み』(野田書房)だった。
菊池が創設に関わった、純文芸・大衆文芸・先輩文芸家への功労賞のなかに、評論と翻訳の賞が加わった。
けれども、その後、あいまいになっていく。
受賞作を続けよう。
第5回受賞、外村繁の『草筏』(砂子屋書房)は、近江商人を描いた長編小説。
第1回芥川賞候補作でもあり、文芸同人雑誌『世紀』での連載が完結し、単行本化されたこの年にも再び芥川賞候補になっている。
第6回受賞、日比野士朗「呉淞クリーク」(『中央公論』掲載)は、日中戦争の激戦区・上海戦線に応召し、除隊後その体験を描いた戦闘ルポ。
第7回受賞、田中英光「オリンポスの果実」(『文學界』掲載)は、自身のロサンゼルス・オリンピックにボート選出として出場した体験をモチーフとした小説。
受賞者のなかった第8回に続く第9回では3人が同時受賞したが、この回もこの傾向は変わらない。
第9回受賞、石塚友二「松風」(『文學界』掲載)は、自身の結婚体験を描いた小説でこの年芥川賞候補に。
伊藤佐喜雄「春の鼓笛」(『コギト』掲載)は、自身の母との別離と思いを描いた小説で、伊藤は第2回芥川賞候補者でもあった。
堺誠一郎『曠野の記録』(六藝社)は、中央公論社の編集者として陸軍報道班員として参加した体験を描いた書き下ろしだった(帰還作家純文学叢書シリーズ)。
このように、第5回以降は、芥川賞の補完のような趣になっていく。
芥川賞との区別しづらい池谷信三郎賞は、戦時下のなかで終了(1942)。
以後、復活していない。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
菊池寛『菊池寛 話の屑籠と半自叙伝』(1988/文藝春秋)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな