石原慎太郎を追いかける三島由紀夫

<第2章 顔をさらすから身をさらすへ>

---3 ニューメディア誕生ラッシュで変わる文芸家像

③―――第1回新潮文学賞受賞(1954)・三島由紀夫  ボディビル開始

 

三島由紀夫は、カラーテレビの本放送が開始された年、大映のカラー映画『からっ風野郎』(監督・増村保造)にヤクザ役で主演する(1960)。

きっかけは、三島の小説『鏡子の家』(1959/新潮社)の映画化の話が出た際(*未実現)、映画会社と深いつきあいが生まれたことだった。

それまで、谷口千吉監督『潮騒』(1954/東宝)、小説『金閣寺』を改題した市川崑監督『炎上』(1958/大映)など、三島原作の映画やテレビドラマは制作されていたが、『からっ風野郎』時、三島は俳優への希望を、講談社の榎本昌治に話したという。

 

新潮社の新田敞、講談社の榎本昌治、大映の藤井浩明は普段からつきあいがあり、話は複合的に進んでいく。

 

『からっ風野郎』の制作にあたり、講談社の音楽部門で、講談社の人気雑誌『キング』にちなんだキングレコード(1931年発足)から、三島の作詞・歌唱による同名の主題歌が発表された。

作曲・ギターは、深沢七郎が担当する。

ギタリストの深沢は、『中央公論』掲載の小説「楢山節考」が第1回中央公論新人賞を受賞し(1956)、ベストセラーの2位(出版指標年報)となっていた(レコードB面はキングレコード専属歌手・春日八郎の「東京モナリザ」)。

 

三島が映画主演する5年前、石原慎太郎が小説家デビューし(1955)、映画の世界でも、弟・裕次郎とともに一世風靡していたが、三島もその波を受けた。

『からっ風野郎』は、裕次郎にあてて書かれた没台本が元になっていた(脚本は黒澤明作品チームの脚本家・菊島隆三)。

 

ここにも、やはりニューメディアの影響があった。

 

三島は、映画主演にいたるまで、自身の肉体改造を行っている。

30歳を迎えた年、『週刊読売』のグラビアを目にしたことがきっかけで、ボディビルを始めた(1955)。

以後、表舞台に立つことが増えていく。

ボディビルを始めた翌年、三島は『週刊新潮』の創刊号で、文壇ボディビル協会の創設を提案(1956)。

また、ボクシングも始めている。

さらにこの年、新劇(*ヨーロッパ演劇を模とし、築地小劇場の流れをくむ)の文学座(中心俳優には芥川龍之介の長男・比呂志もいた)へも入座し、原作の提供だけでなく、舞台にも立った。

芥川賞を受賞したばかりの石原慎太郎文藝春秋新社(*当時)で初対面(このとき樋口進が撮影)。

林忠彦も三島の撮影を行っている。

執筆では、代表作となる『金閣寺』を発表し、第8回読売文学賞を受賞した。

 

1957年からは、全19巻となる『三島由紀夫選集』(新潮社)の刊行も開始された。

この年、文芸雑誌『群像』(講談社)に連載していた『美徳のよろめき』が単行本化(講談社)され、ベストセラーの4位に。

翌年には、三島は結婚し、この時期創刊ラッシュとなった出版社系の週刊誌をにぎわせる。

フジテレビが開局した年から始まったテレビ番組『スター千一夜』に出演までも行った(1959)。

“6社協定”のなか、テレビでは映画俳優の出演はまだ制限されていた時代だった。

文学座サロメ』では、装置と衣装のデザイン、演出まで手がけている(1960)。

 

さらに時間を戻す。

表舞台に立ちつつも、けれども、当時の三島の関心がどこにあったかが伺える。

 

体を鍛えていく直前、三島は、初の全集『三島由紀夫作品集』(全6巻/新潮社)の刊行を開始(1953-54)。

書き下ろし『潮騒』(1954/新潮社)で、第1回新潮社文学賞を受賞する(選考委員は伊藤整川端康成小林秀雄ら)。

潮騒』は、その年のベストセラーの5位となっている。

 

この頃、三島は、銀座のゲイバー『ブランズウィック』(丸山(美輪)明宏も働く)で元・米軍情報関係の将校メレディス・ウェザビーと知り合ったといわれる。

それをきっかけに、メレディスは、『潮騒』の英語版『The Sound of Waves』(1956)と『仮面の告白』の英語版『Confessions of a Mask』(1958)を翻訳。

同じ頃、戦時中に日本人捕虜に対応することを目的に設立された海軍日本語学校出身のドナルド・キーンが翻訳した戯曲集『近代能楽集』の英語版『Five Modern Nō Plays』(1957)が、すべてアメリカのクノップス社から出版されている。

 

翻訳が進むなか、欧米で三島の名が知られていく。

ノーベル文学賞の可能性が取り沙汰される。

『午後の曳航』の英訳『The Sailor Who Fell from Grace with the Sea』(1965)を手がけたジョン・ネイスンに、その後押しを依頼していたともいう。

三島は、表舞台に立ちつつも、あくまで“文学”にこだわっていた。

結局、日本人初のノーベル文学賞は、三島の母校・東京帝国大学(現・東京大学)の先輩でもあり、学生だった三島の文壇デビューの後押しもした川端康成が受賞(1968)した(川端の『雪国』の英訳は、ドナルド・キーンの親友で同じく海軍日本語学校出身のエドワード・サイデンステッカーが手がけていた)。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』(1999/文藝春秋

松本徹・井上隆史・佐藤秀明 編集『三島由紀夫と映画 三島由紀夫研究②』(2006/鼎書房)

三島由紀夫『私の遍歴時代 三島由紀夫のエッセイ1』(1995/筑摩書房

ジョン・ネイスン『新版・三島由紀夫 ある評伝』(2000/新潮社)

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな