石原慎太郎を追いかける三島由紀夫

<第2章 顔をさらすから身をさらすへ>

---3 ニューメディア誕生ラッシュで変わる文芸家像

③―――第1回新潮文学賞受賞(1954)・三島由紀夫  ボディビル開始

 

三島由紀夫は、カラーテレビの本放送が開始された年、大映のカラー映画『からっ風野郎』(監督・増村保造)にヤクザ役で主演する(1960)。

きっかけは、三島の小説『鏡子の家』(1959/新潮社)の映画化の話が出た際(*未実現)、映画会社と深いつきあいが生まれたことだった。

それまで、谷口千吉監督『潮騒』(1954/東宝)、小説『金閣寺』を改題した市川崑監督『炎上』(1958/大映)など、三島原作の映画やテレビドラマは制作されていたが、『からっ風野郎』時、三島は俳優への希望を、講談社の榎本昌治に話したという。

 

新潮社の新田敞、講談社の榎本昌治、大映の藤井浩明は普段からつきあいがあり、話は複合的に進んでいく。

 

『からっ風野郎』の制作にあたり、講談社の音楽部門で、講談社の人気雑誌『キング』にちなんだキングレコード(1931年発足)から、三島の作詞・歌唱による同名の主題歌が発表された。

作曲・ギターは、深沢七郎が担当する。

ギタリストの深沢は、『中央公論』掲載の小説「楢山節考」が第1回中央公論新人賞を受賞し(1956)、ベストセラーの2位(出版指標年報)となっていた(レコードB面はキングレコード専属歌手・春日八郎の「東京モナリザ」)。

 

三島が映画主演する5年前、石原慎太郎が小説家デビューし(1955)、映画の世界でも、弟・裕次郎とともに一世風靡していたが、三島もその波を受けた。

『からっ風野郎』は、裕次郎にあてて書かれた没台本が元になっていた(脚本は黒澤明作品チームの脚本家・菊島隆三)。

 

ここにも、やはりニューメディアの影響があった。

 

三島は、映画主演にいたるまで、自身の肉体改造を行っている。

30歳を迎えた年、『週刊読売』のグラビアを目にしたことがきっかけで、ボディビルを始めた(1955)。

以後、表舞台に立つことが増えていく。

ボディビルを始めた翌年、三島は『週刊新潮』の創刊号で、文壇ボディビル協会の創設を提案(1956)。

また、ボクシングも始めている。

さらにこの年、新劇(*ヨーロッパ演劇を模とし、築地小劇場の流れをくむ)の文学座(中心俳優には芥川龍之介の長男・比呂志もいた)へも入座し、原作の提供だけでなく、舞台にも立った。

芥川賞を受賞したばかりの石原慎太郎文藝春秋新社(*当時)で初対面(このとき樋口進が撮影)。

林忠彦も三島の撮影を行っている。

執筆では、代表作となる『金閣寺』を発表し、第8回読売文学賞を受賞した。

 

1957年からは、全19巻となる『三島由紀夫選集』(新潮社)の刊行も開始された。

この年、文芸雑誌『群像』(講談社)に連載していた『美徳のよろめき』が単行本化(講談社)され、ベストセラーの4位に。

翌年には、三島は結婚し、この時期創刊ラッシュとなった出版社系の週刊誌をにぎわせる。

フジテレビが開局した年から始まったテレビ番組『スター千一夜』に出演までも行った(1959)。

“6社協定”のなか、テレビでは映画俳優の出演はまだ制限されていた時代だった。

文学座サロメ』では、装置と衣装のデザイン、演出まで手がけている(1960)。

 

さらに時間を戻す。

表舞台に立ちつつも、けれども、当時の三島の関心がどこにあったかが伺える。

 

体を鍛えていく直前、三島は、初の全集『三島由紀夫作品集』(全6巻/新潮社)の刊行を開始(1953-54)。

書き下ろし『潮騒』(1954/新潮社)で、第1回新潮社文学賞を受賞する(選考委員は伊藤整川端康成小林秀雄ら)。

潮騒』は、その年のベストセラーの5位となっている。

 

この頃、三島は、銀座のゲイバー『ブランズウィック』(丸山(美輪)明宏も働く)で元・米軍情報関係の将校メレディス・ウェザビーと知り合ったといわれる。

それをきっかけに、メレディスは、『潮騒』の英語版『The Sound of Waves』(1956)と『仮面の告白』の英語版『Confessions of a Mask』(1958)を翻訳。

同じ頃、戦時中に日本人捕虜に対応することを目的に設立された海軍日本語学校出身のドナルド・キーンが翻訳した戯曲集『近代能楽集』の英語版『Five Modern Nō Plays』(1957)が、すべてアメリカのクノップス社から出版されている。

 

翻訳が進むなか、欧米で三島の名が知られていく。

ノーベル文学賞の可能性が取り沙汰される。

『午後の曳航』の英訳『The Sailor Who Fell from Grace with the Sea』(1965)を手がけたジョン・ネイスンに、その後押しを依頼していたともいう。

三島は、表舞台に立ちつつも、あくまで“文学”にこだわっていた。

結局、日本人初のノーベル文学賞は、三島の母校・東京帝国大学(現・東京大学)の先輩でもあり、学生だった三島の文壇デビューの後押しもした川端康成が受賞(1968)した(川端の『雪国』の英訳は、ドナルド・キーンの親友で同じく海軍日本語学校出身のエドワード・サイデンステッカーが手がけていた)。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』(1999/文藝春秋

松本徹・井上隆史・佐藤秀明 編集『三島由紀夫と映画 三島由紀夫研究②』(2006/鼎書房)

三島由紀夫『私の遍歴時代 三島由紀夫のエッセイ1』(1995/筑摩書房

ジョン・ネイスン『新版・三島由紀夫 ある評伝』(2000/新潮社)

 

f:id:miyakeakito2012:20170805221533j:plain

筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

石原慎太郎 ポップスターになっていく裏側で

<第2章 顔をさらすから身をさらすへ>

---3 ニューメディア誕生ラッシュで変わる文芸家像

②―――石原慎太郎の活躍の裏で  ニューメディアの誕生ラッシュ

 

石原慎太郎が『太陽の季節』で第34回芥川龍之介賞を受賞(1956)した時期は、テレビ局の開局、出版社系週刊誌の創刊のタイミングでもあった。

 

まず、映画界から見ておきたい。

日活(日本活動フィルムから改称)は、輸入商の集まりから京都で始まった(1912)。

松竹は、歌舞伎・演劇から映画へ参入してくる(1920)。

東宝は、阪急資本の宝塚歌劇の東京進出をきっかけに映画も手がけていく(1932)。

大映は、戦時中の統制化のなかで松竹系の新興シネマ・大都映画・日活の統合によって生まれた(1942*このとき永田雅一は初代社長に菊池寛を迎える)。

東宝は、戦後、東宝労働争議のなかから東宝から独立するかたちで生まれた(1947)。

東映は、東急資本の東横映画・太泉映画・東京映画配給が戦後合併し、始まった(1951)。

 

戦後、大映から分離した日活は、俳優が少なく、俳優の引き抜きを開始する。

その動きに対し、大映の社長・永田雅一の呼びかけ、東宝藤本真澄の推進によって、俳優の引き抜きを禁止した“5社協定”(松竹・東宝大映・新東宝東映)が結ばれた(1953)。

この頃、映画業界そのものは、「映画の日」を制定し(1956年12月1日)、大掛かりなイベントを行うなど、興隆を迎えている。

 

石原慎太郎の『太陽の季節』の映画化(1956)は、その日活で制作された。

水の江瀧子(滝子)(元・松竹歌劇団1期生)が日活とプロデューサー契約をしたのはその前年であり、『太陽の季節』に出演した石原の弟・裕次郎の登場は、当時、俳優の少なかった日活を救った。

石原慎太郎の登場は、そんなタイミングでもあった。

 

やがてテレビ局の開局ラッシュにあたる。

日活も協定に加わり、“6社協定”となり(1958)、俳優たちのテレビ出演に制約をかけていく。

このときが、日本の映画館の観客入場者数のピークであり、石原初監督となる東宝映画『若い獣』と同年でもあった。

それと入れ替わるように、石原映画で監督を務めた市川崑が、翌年から積極的にテレビドラマを手がけていく。

 

そのテレビ放送が、地上波として国内で初めて放送されたのは、1953年、NHK日本テレビになる。

2年後にはラジオ東京(現・TBSテレビ)が放送を開始。

その4年後には、NHK教育テレビジョン日本教育テレビ(現・テレビ朝日)、フジテレビジョンが次々と開局。

テレビ放送は、1950年代、一気に生まれたニューメディアだった。

 

さらに、この頃、ラジオ局の開局ラッシュ、雑誌の創刊ラッシュが起こる。

戦前、映画会社が増えていくなかで、新聞社が、『週刊朝日』『サンデー毎日』の週刊誌を創刊した(ともに1922年創刊*『文藝春秋』創刊はその翌年)。

こうしたニューメディアの登場への、さらなるニューメディアの対抗は、戦後にも起こる。

1951年、ラジオ局が一気に開局すると(NHK毎日放送朝日放送、TBS)、新聞社系の週刊誌『週刊読売』『週刊サンケイ』の創刊が続いた(ともに1952)。

 

テレビ局開局の動きが生まれるなかで、出版社系週刊誌『週刊新潮』(新潮社)が創刊される(1956)。

以降、『週刊アサヒ芸能』徳間書店『週刊女性』(河出書房*現・河出書房新社主婦と生活社『週刊実話』日本ジャーナル出版『週刊大衆』双葉社『女性自身』(光文社)『週刊現代』講談社『週刊文春』文藝春秋)『週刊コウロン』(中央公論社)と2年のあいだに出版社系の週刊誌が続々と創刊された。

全国に支社をもたない出版社系では、新聞社系との差別化により、グラビアやゴシップ色の強い誌面作りが特徴となった。

そのひとつが、皇太子(今上天皇)と初の民間の女性(正田美智子)とのご成婚(1959)を巡る記事だった。

週刊文春』の創刊号の表紙は正田美智子が飾り、『女性自身』は皇室記事によって、その売り上げを大きく伸ばしていく。

 

こうした雑誌メディアの増大は、写真家たちの仕事も広げていく。

映画雑誌『近代映画』(近代映画社)の女優のポートレイト撮影からそのキャリアを始めた写真家・秋山庄太郎は、『週刊文春』『週刊サンケイ』『週刊現代』の表紙を手がけていく。

 

広告出稿量は、新聞・雑誌・ラジオ・テレビのうち、一番のニューメディアだったテレビは、雑誌(1957)、ラジオ(1959)と順に抜いた。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

永田雅一『映画自我経』(1957/平凡出版)

尾崎秀樹編著『プロデューサー人生 藤本真澄映画に賭ける』(1981/東宝出版事業部)

 

f:id:miyakeakito2012:20170805221533j:plain

筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

現在の芥川賞を生んだ石原慎太郎

<第2章 顔をさらすから身をさらすへ>

---3 ニューメディア誕生ラッシュで変わる文芸家像

松本清張ブーム(1960)が沸き起こる数年前、一人の大学生が芥川龍之介賞を受賞する。

受賞作の映画化以後、ここに、現在の芥川賞のイメージが生み出されていくことになる。

――第1回文學界新人賞受賞(1955)・石原慎太郎  生まれ変わった芥川賞

 

石原慎太郎は、一橋大学在学中の22歳の年、短編小説「太陽の季節」を、『文學界』(文藝春秋社*当時)に発表する(1955)。

 

石原は、マルキ・ド・サドジャン・ジュネの小説、ジャン・コクトーが小説『アンファンテリブル(恐るべき子供たち)』で描いた世界観を大きく意識し、大人を驚かせようと考えていたという。

太陽の季節」では、裕福でありながらも自堕落に生きる男子高校生が、愛した女性を自身の兄と金銭でやりとりするなど、複雑な愛の感情が描かれた。

 

石原の思惑通り、「太陽の季節」は、“ついに現れた戦後の青春像”のキャプションが添えられて掲載。

同年、第1回文學界新人賞を受賞した。

すぐに日活で映画化も決まる。

映画化の話が進んでいるなかで、その翌年、芥川龍之介賞も受賞する(第34回)。

受賞時の23歳は、当時史上最年少の受賞となった。

 

映画が決まっていたことから、石原は単行本化を急いでいたという。

東宝で助監督としての内定も決まっていた石原には(*入社1日で退社するが、芥川賞受賞で嘱託に)、当初からメディアミックス的な発想があった。

単行本化は、芥川賞受賞後、文藝春秋社からではなく、すぐさま新潮社が行い、その年のベストセラーの1位(出版指標年報)となっている。

 

日活映画『太陽の季節』(1956/監督・古川卓巳)は、当初、石原が主演するという話しもあったというが、特別出演となった(主演・長門裕之)。

石原の短い髪型は、“慎太郎カット”と呼ばれ、アロハシャツ、サングラスの姿を真似た若者たちは“太陽族”と呼ばれていく(大宅壮一命名)。

 

映画では、石原の手伝いとして映画の現場にやってきていた弟・裕次郎(当時・慶応大学生)が、日活プロデューサーの水の江瀧子(滝子)(松竹歌劇団1期生より転身)に見出され、俳優デビューとなる。

水の江製作による日活映画『太陽の季節』公開の同年、日活は3ヶ月連続で石原映画を制作した。

石原原作の映画『処刑の部屋』(監督・市川崑)、石原原作・脚本、裕次郎主演『狂った果実』(監督・中平康)を続けて公開。

テレビの普及以前、新作映画が毎週2作ペースで制作されていた当時、映画によって石原のイメージは増幅されていく。

石原は、大映映画『穴』(1957/監督・市川崑)では、作家と歌手の役で出演し、歌も披露している。

 

そして東宝で、石原は、原作・脚本を含む3本の映画で主演を務めた(堀川弘通監督『日蝕の夏』・松林宗恵監督『婚約指輪』・鈴木英夫監督『危険な英雄』)。

 

さらに、東宝藤本真澄プロデューサーの方針によって『若い獣』(1958)では、原作・脚本・出演に加えて、当時としては異例の異業種からの初監督も行った。

徒弟制度が確立していた映画会社の現場では、助監督たちからの猛反発が起こっているも実現している。

(結果、岡本喜八など当時の若手助監督に監督の門戸を開くことになっている)

 

こうした、石原の多彩な活動の背景には、伊藤整(代表作『女性に関する十二章』『文学入門』など)の助言があった。

 

伊藤は、石原の母校・一橋大学の先輩であり、第1回文學会新人賞の審査員を務め、「太陽の季節」を強く推していた。

 

伊藤は石原にこう述べたという。

文学以外のことでも興味が涌くものは何でもやったらいいと思うな。

(引用者中略)失敗したところで作家なんだから、今度はなんでそれに失敗したかを書いたらいいんです。

  

石原が講演会に来ると、テレビ普及以前の時代、ラジオメディアからの情報を頼りにした若い女性ファンが殺到したという。

石原は、アイドル的な人気者となった。

ここに、現在の芥川賞のイメージが形成された。

 

石原ブームに沸き始めたなかで、壽屋(現・サントリー)のコピーライターとして活躍していた開高健(1957年・受賞時27歳)が、東京大学在学中に“学生作家”としてすでに話題をさらっていた大江健三郎(1958年・受賞時23歳)が、それぞれ芥川賞を受賞する。

 

石原・開高・大江は、この時期、『中央公論』の編集者・青柳正美と文芸評論家・江藤淳の呼びかけで、「若い日本の会」と名乗った活動をともに行う(1958)。

自民党の政策・警察官職務執行法の強大化を図る改正案への反対がきっかけだった。

他のメンバーは、浅利慶太(劇作)・谷川俊太郎(詩)・黛敏郎(作曲)ら、当時20代の若者であり、“若さ”による現在の芥川賞のイメージが、さらに増幅されていくことになった。

 

この時期、石原映画と同じく、開高健原作の大映映画『巨人と玩具』(1958/監督・増村保造)、大江健三郎原作の日活映画『われらの時代』(1959/監督・藏原惟繕)も制作されている。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

『芥川賞・直木賞150回全記録』(2014/文藝春秋

 植田康夫『本は世につれ ベストセラーはこうして生まれた』(2009/水曜社)

志村有弘『石原慎太郎を知りたい 石原慎太郎事典』(2001/勉誠出版

石原慎太郎『歴史の十字路に立って』(2005/PHP研究所

水の江瀧子 阿部和江『みんな裕ちゃんが好きだった ターキーと裕次郎と監督たち』(1992/文園社)

廣澤榮『私の昭和映画史』(1989/岩波新書

岡本喜八『しどろもどろ 映画監督岡本喜八対談集』(2012/筑摩書房

 

 

f:id:miyakeakito2012:20170805221533j:plain

筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

吉川英治と入れ替わった松本清張以前以後

<第2章 顔をさらすから身をさらすへ>

---2 “円本”に次ぐ発明―――装丁としての著者近影

②―――カッパ・ノベルス誕生  松本清張の大ブームとニューメディア

 

光文社の編集者・神吉晴夫は、カッパ・ブックスをスタートさせた5年後、今度は、カッパ・ノベルスを創刊する(1959)。

神吉は、これまで岩波書店や新潮社など先行する出版社と成り立ちの違いから、ノン・フィクションにこだわってきたにも関わらず、小説の出版に踏み切る。

そこには、松本清張との出会いがあった。

 

松本清張は、小学校卒業後、印刷工~朝日新聞などでの広告デザイナーを経て、芥川龍之介賞受賞者となっていたものの(1952)、連載する場もままならない状況で、連載しても必ず単行本が出版されるような存在ではなかった。

 

当時の文壇では、推理小説の位置は低かった。

神吉自身も、江戸川乱歩木々高太郎(第4回直木三十五賞受賞者で大脳生理学者)の名前を知っていた程度で、推理小説の読者は非常に変わった層ととらえていた。

編集部の女性スタッフ・松本恭子の強い推しがなければ、松本清張の小説も手に取るようなものでなかった。

実際、松本も書く場所に苦労しており、旅行雑誌『旅』(日本交通公社JTB~新潮社)で「点と線」が連載できていたのは、推理小説好きの女性編集長・戸塚文子の強い推薦がきっかけだった。

(松本初の長編ミステリーとなった「点と線」が鉄道ミステリーとなったのは、掲載誌の性格からだった)

 

「点と線」を読んだ神吉は、そのときの感想を次のように述べている。

 

これならば、「カッパ・ブックス」の取り扱っている、同時代人の共感を誘い出すという本にきっとなる―――「カッパ・ブックス」は権威主義の出版社じゃない。

著者と読者は上と下のつながりでなく、同じ線でつながっているのです。

(引用者中略)日本という国、東京という都会で同じように生活している同時代人なんだという感覚、同時代人的なものの考え方を持っていて、同じように泣いたり、怒ったり、悲しんだり、さびしがったりするような人間を取り扱って、私もやっぱり現代に生きているんだなあという共感を誘い出すということが私の仕事です。

 

神吉は、自著のなかで、著者は読者と同じ立場にあり、ヒットには同時代性が必要と何度も繰り返した。

 

神吉は、すぐさま松本に出版の相談を持ち込んだ。

松本の条件は、印税を放棄するかわりに、大いに宣伝をというものだった。

そして、「点と線」の連載の終わった年、光文社は単行本化を行った(1958)。

 

このとき、神吉は、松本の以前の職場・朝日新聞に、光文社から同時発売の松本の長編推理小説『眼の壁』(『週刊読売』連載)とともに広告を打った。

同年、『点と線』は東映(監督・小林恒夫)で、『眼の壁』は松竹(監督・大庭秀雄)で映画化。

両映画は、人気を呼び、社会派の推理小説ブームを起こしていく。

 

このヒットにより、カッパ・ブックスの姉妹編としてカッパ・ノベルスが誕生することになる(1959)。

 

第1回配本は、松本清張ゼロの焦点』(『太陽』『宝石』連載)と南條範夫『からみ合い』(『宝石』連載)の2冊の長編推理小説となった。

 

そして、カッパ・ノベルスでも、カッパ・ブックスと同じように装丁としての著者近影が行われていく。

翌年、『点と線』も単行本からカッパ・ノベルス版として発売し直され、裏表紙を松本の著者近影が飾った。

 

このブロックの最後に、当時の時代状況をふれておきたい。

『点と線』出版以前に、すでに土壌は育ちつつあった。

松本初の短編集『顔』(1956/講談社)は、刊行の年、第10回日本探偵作家クラブ賞(現・日本推理作家協会賞)を受賞していた。

この時期、民間のテレビ局の開局ラッシュの時期にあたっており、松本原作のテレビドラマも制作された。

松本原作の映画作品も、松竹、大映、日活ですでに公開されていた。

時代は、新聞、雑誌、映画のなかに、テレビが加わるメディアミックス的な装いとなっていた。

 

こうしたなかで、カッパ・ノベルスは誕生した。

 

実際、松本清張の小説がベストセラー(出版指標年報)の上位に入るのは、女性雑誌『婦人倶楽部』(講談社)に連載されて講談社が単行本化した年に大映で映画化された『黒い樹海』(1960/監督・原田治夫)、『読売新聞』に連載されてカッパ・ノベルスから刊行された『砂の器』(1961)、『河北新報』などに連載されてカッパ・ノベルスから刊行された『影の地帯』(1961)、光文社が3年前に創刊した女性週刊誌『女性自身』に掲載されてカッパ・ノベルスから刊行された『風の視線』(1962)の時期になる(それぞれ順に10位、5位、6位、10位)。

この時期、松本は、高額納税者公示制度”長者番付”(国税庁)の作家部門で戦後長らく1位を続けていた吉川英治(第1回直木賞選考委員)に替わって、1位になっている(1960年度)。

 

こうして始まったカッパ・ノベルスの“松本清張シリーズ”は、人気となり、発行部数860万部を突破すると、神吉は、光文社発行の松本の全作品と新刊、着物姿の松本の立ち姿の近影を載せた一面広告を新聞に打った(1967)。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

神吉晴夫『現場に不満の火を燃やせ ビジネスマン入門』(1963/オリオン社)

神吉晴夫『カッパ軍団をひきいて 魅力を売りつづけた男たちのドラマ』(1976/学陽書房

新海均『カッパ・ブックスの時代』(2013/河出ブックス)

塩澤実信著・小田光雄編集『戦後出版史 昭和の雑誌・作家・編集者』(2010/論創社

林悦子『松本清張映像の世界 霧にかけた夢』(2001/ワイズ出版

加納重文『松本清張作品研究』(2008/和泉書院

 

 

f:id:miyakeakito2012:20170805221533j:plain

筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

著者近影が装丁デザインに組み込まれていく

<第2章 顔をさらすから身をさらすへ>

---2 “円本”に次ぐ発明―――装丁としての著者近影

田村茂が『現代日本の百人』(文藝春秋新社)を、土門拳が『風貌』(アルス)を発表した翌年の1954年、光文社は新レーベルのカッパ・ブックスをスタートする。

このシリーズから、著者の写真と略歴を装丁に載せた、著者近影を始めている。

(もちろん、明治期より、口絵写真として著者近影そのものは行われており、尾崎紅葉は生前から葬儀までの写真をまとめた葬儀写真集『あめのあと』(データ不明)、夏目漱石の13回忌写真集『漱石写真帖』(1929/改造社)もある)。

①―――後発・光文社の“創作出版” 小説/文芸評論・伊藤整の提案

 

光文社のカッパ・ブックスの第1弾は、小説と文芸評論を手がけた伊藤整の『文学入門』(1954)になる。

中村武志『小説 サラリーマン目白三平』と同時発売された。

 

カッパ・ブックス誕生のきっかけは、伊藤からの提案だった。

 

伊藤の原稿は1冊にまとめるには少なかったことと、当時、伊藤が『婦人公論』の連載をまとめたエッセイ本『女性に関する十二章』(1953/中央公論社)が、刊行の翌年、東宝で映画化され(監督・市川崑)、ベストセラーの1位(出版指標年報)となっており、その著書と同じ薄い版型が手にとってもらいやすいのでは、というものだった。

 

そこから、光文社の編集者・神吉晴夫は、カッパ・ブックスを考えていくことになる。

 

神吉の頭にすぐに浮かんだのは、岩波新書(1938年創刊)だったが物真似はしたくなかった。

そこで、岩波新書が参考にしたイギリスのペンギン・ブックスなど海外のペーパーバックを参考に、さまざまなアイデアを考えた。

 

「電車のなかでも読みやすいように紙質をあかるく」「活字も9ポイントを使う」「豪華なカバーを使う」「日本で初めての試みとして、そのカバーの裏面に写真入りの著者紹介をのせたり」と神吉は述べている。

 

こうした考えの背景には、神吉が東京帝国大学(現・東京大学)で学び(*中退)、東京帝国大学系で教養路線の岩波書店ではなく、同じ東京帝国大学系でも講談などを扱う大衆路線だった講談社で仕事を始めたことが大きかった。

 

神吉は、講談社に入社後、子会社の光文社に移ると、光文社は戦後にできたばかり出版社であったことから(1945年創業)、「無名の出版社は無名の著者に」をコンセプトとした。

社会心理学』(南博)が最初の話題作となったのち、無名の母親が子育てに苦労する姿を描いた『少年期 母と子の四年間の記録』(波多野勤子)が、ベストセラーの1位となった(1951)。

 

こうしたノンフィクション路線には、岩波書店とは違うものをという考えが流れており、その後、新たに書籍を版型・デザインから考えるにあたり、(伊藤整は著名だったが)肩書きのない著者を紹介するうえで、装丁としての著者近影が生まれていく。

 

神吉は、自著でヒットの秘密を紹介している。

そこから、著者という存在をどうとらえていたかが伺える。

 

著者あるいは作家は、読者より一段高い階級の人間ではないということ。

だから作品は、上のものが下のものに……を授けるのではない。著者あるいは作家は、すでに読者のなかにもやもやと存在している……を意識して、作品のなかに「形づくる」のである。

造形するのである。そういう面から読者の共感をそそるのである。

したがって、同時代的共鳴度の強い作品が大ヒットする可能性が多いといえるのではないか。

 

著者は読者と同じ立場にあり、ヒットには同時代性が必要。

神吉にとって、著者近影を装丁に組み込むことは必然だっただろう。

それが、カッパ・ブックスだった。

 

神吉によれば、伊藤整の『文学入門』のヒットには、伊藤が時の人だったことも幸いしたという。

当時、伊藤が翻訳したイギリスの小説家D・H・ローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』(小山書店)が、わいせつ性をめぐって裁判沙汰となっており、伊藤が『文学入門』の前年に光文社から発表していた小説『火の鳥』(*伊藤の過去の連載分を1冊にまとめた)も、『文学入門』発売の年、ベストセラー7位となっていた。

 

けれども、そうした伊藤の話題性とは別に、カッパ・ブックスからは、創刊の翌年、年間ベストセラーを4冊生み出した(1955)。

望月衛『慾望 そのそこにうごめく心理』、渡辺一夫『うらなり抄 おへその微笑 随筆』、岡倉古志郎『財閥 かくて戦争はまた作られるか』、正木ひろし『裁判官 人の命は権力で奪えるものか』)。

 

神吉は、自身の編集論を“創作出版”と呼び、読者へ訴えかけたいことをサブタイトル化するなどを述べているが、カッパ・ブックスの装丁には、著者近影も添えられている。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

山田慎也『遺影と死者の人格 葬儀写真集における肖像写真の扱いを通して』(2011/国立歴史民俗博物館研究報告書 第169集)

神吉晴夫『現場に不満の火を燃やせ ビジネスマン入門』(1963/オリオン社)

神吉晴夫『カッパ軍団をひきいて 魅力を売りつづけた男たちのドラマ』(1976/学陽書房

新海均『カッパ・ブックスの時代』(2013/河出ブックス)

塩澤実信著・小田光雄編集『戦後出版史 昭和の雑誌・作家・編集者』(2010/論創社

 

f:id:miyakeakito2012:20170805221533j:plain

筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

 

土門拳初の写真集は文芸家のポートレイトから

<第2章 顔をさらすから身をさらすへ>

---1  文芸家ポートレイトが文芸雑誌の連載企画に

ここまで『小説新潮』『文藝春秋』の戦後復興期の動きを見たが、同時期の写真雑誌の動きも見よう。

③―――写真家/編集者・桑原甲子雄とアルスの戦後復興  土門拳の神格化

 

写真家・土門拳は、著名人を撮らえた人物写真集『風貌』(アルス)を発表している(1953)。

 

土門は、先輩の写真家・木村伊兵衛初の個展「ライカによる文芸家肖像写真展」(紀伊国屋書店・銀座支店のギャラリー)の3年後、武田麟太郎(『文學界』同人)を仕事で撮影したのをきっかけに(1936)、ポートレイトの撮影を始める。

写真集としての企画自体は戦後からになるが(1948)、『風貌』には、最終的に83枚のポートレイトが収められた。

 

「僕の尊敬する人、好きな人、親しい人たち」を基準とし、文芸家では、幸田露伴徳田秋声、土居晩翠、島崎藤村正宗白鳥永井荷風斉藤茂吉志賀直哉谷崎潤一郎井伏鱒二、吉田一穂、川端康成宮本百合子小林秀雄高見順らを撮影している。

『婦人画報』『写真文化』などの雑誌の仕事での撮影、作家のつながり、編集者のつて、時には突然の申し出によって、撮影を行った。

 

こうして完成した『風貌』は、 土門初の写真集ともなった。

木村も土門も、最初にまとまった仕事は、文芸家のポートレイトを中心としたものだった。

 

けれども、戦前から始めた撮影時と出版時では、土門は変化している。

『風貌』に収録された文章には、民俗学者柳田國男と「民俗と写真」と題した座談会のやりとりが記されている。

 

柳田先生は「一切の作為と演出を排して、相手が知らぬ間に撮った写真でなければ価値がない」と言われた。

(引用者中略)ところが当時僕は、徹底した組写真形式による報道的写真家の立場に立っていた。

(引用者中略)「写真的現実と視覚的現実は必ずしも一致していないから、専門の写真家としてはライティングなりアングルなりで技術的に修正しなければならぬ」とも主張した。

(引用者中略)それ以来、かれこれ十年経った。

今、僕は、社会的リアリズムの立場から、「絶対非演出」の「絶対スナップ」を自ら提唱している。

方法論としては明らかに柳田先生に屈服した形である。

 

”報道写真”を掲げ、情報伝達の手段として写真をもちいた名取洋之助の元でプロの写真家としての活動を開始した土門は、名取と訣別したのち、戦争をはさんで、一切の演出や加工を行わない”社会的リアリズム”の考えになっていた。

 

土門の『風貌』の出版を行ったアルスも、戦前と戦後で変化している。

 

出版社・アルス(ラテン語で「技」「技術」の意。アートの語源)は、1915年、誕生する。

大正初期の、文芸雑誌、女性雑誌、少女雑誌の創刊ラッシュと同時期にあたる。

 

『アルス』は、詩人・北原白秋の弟・鉄雄が立ち上げた。

6年後には、アマチュア向けの写真雑誌『カメラ』も創刊する。

明治期、榎本武揚らの日本写真会、尾崎紅葉鏑木清方らの東京写友会など写真愛好家団体の動きがあったが、大正末期になってカメラの低価格が始まり、富裕層だけの楽しみから解放し、アマチュアカメラマンが増え始めていた。

『カメラ』は、その要望に応えた雑誌だった。

 

雑誌に先駆けてアルスは、カメラを趣味とした洋画家・三宅克己『写真の写し方』(1916)、『カメラ』編集長となる高桑勝雄『フィルム写真術』(1920)などを出版し、アマチュアたちへ撮影方法を指南した。

 

その後、『カメラ』は、戦時下の雑誌統制のなかで数冊の雑誌と統合され、『写真文化』となる。

写真家・石津良介編集長(戦後、桑原甲子雄秋山庄太郎林忠彦植田正治・緑川洋一のプロとアマ混合の写真家集団・銀龍社結成)のとき、土門は、第1回アルス写真文化賞を受賞した。

土門34歳の年だった(1943)。

先ほどふれた柳田國男との対談が行われたのは、この『写真文化』でのことだった。

 

戦後も、アルスは、土門の場となっている。

『カメラ』は、『CAMERA』として復刊(1948)。

このとき、写真家・桑原甲子雄を編集長に迎える。

桑原は、これをきっかけに、編集者へ転じた。

 

桑原は、アマチュア向け雑誌からの脱却を図ろうと、翌年から木村伊兵衛・土門の口絵連載を開始。

そして、アマチュアの月例写真の選者に土門を招いた(1950年から)。

土門は、紙面で、先ほど引用した“社会的リアリズム”を提唱し、全国の写真愛好家の指針となっていく。

 

土門の月例写真会から2年後、桑原は、木村伊兵衛も選者に迎え、戦前対立していた土門と交互に選者を務めさせる。

この時期木村は、写真家・林忠彦の働きかけもあって、日本写真家協会の初代会長に就任していた時期で(1950年設立)、桑原の試みによって、木村と土門という2大作家のイメージが形成されていくことになった。

 

そうしたなか、アルスから世に放たれたのが、著名人のポートレイトを収めた写真集『風貌』(1953)だった。

 

しかし、以後、土門の主な関心は静物へと移り、『風貌』発行の3年後、『CAMERA』は廃刊となっている(1956)。

最終号は、再び、石津良介が編集長となっていた。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

土門拳『風貌』(1953/アルス)

三宅克己『写真の写し方』(1916/アルス)

高桑勝雄『フィルム写真術』(1920/アルス)

大竹昭子『眼の狩人 戦後写真家たちが描いた軌跡』(1994/新潮社)

岡井耀毅『評伝 林忠彦 時代の風景』(2000/朝日新聞社

 

f:id:miyakeakito2012:20170805221533j:plain

筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

新潮社に続いた文藝春秋の文芸家のポートレイト

<第2章 顔をさらすから身をさらすへ>

---1  文芸家ポートレイトが文芸雑誌の連載企画に

②―文藝春秋社の戦後復興「現代日本の百人」と田村茂  ~写真家か? 写真屋か?~

 

『小説新潮』で“文士シリーズ”が始まった翌年、総合雑誌『文藝春秋』(1945年復刊)で、「現代日本の百人」と題したグラビア連載企画が始まる(1949)。

文藝春秋』のグラビアページの始まりでもあった。

写真家・田村茂が手がけた。

 

田村は、地元・北海道の写真館で写真を学び、東京へ。

オリエンタル写真学校に学んだのち、銀座で広告写真のプロとしてのキャリアをスタートさせた。

 

田村は、桑沢デザイン研究所を戦後開くことになる、当時・編集者だった桑沢洋子(のちに夫婦となるも離婚)との出会いによって、建築写真、婦人雑誌『婦人画報』のファッション写真を主に手がけていく。

 

戦前、写真家であり、編集者の名取洋之助との関わり合いを持った田村は、自身の仕事に対する考えを、名取から学んだという。

 

ぼくが『婦人画報』の仕事を大切にした理由は、写真雑誌ではない商業雑誌だったからなんだ。

(引用者中略)写真というのは大勢の人に見てもらうためのものだと思う。

狭い範囲の写真家に見せるんじゃなくて、多くの生活している人に、人間の生活を見せるのが写真だからね、それには、やはり、印刷化しなければしょうがない。

印刷化ということが大切だということは、(引用者中略)名取洋之助さんなんかの関係でも、知っていた。

 

田村も当時の写真家と同じように戦時中、国策写真を戦地で撮影したのち、戦後、広告写真の世界へ復帰する。

「現代日本の百人」の企画は、『文藝春秋』の編集長・池島信平(3代目・文藝春秋社長)の発案で始まり、人選は編集部が行った。

その方針の元、田村は、高村光太郎志賀直哉谷崎潤一郎大佛次郎川端康成らの自宅を訪れて撮影を行っている。

 

撮影における考えを田村はこう述べている。

 

結局、自分の眼、自分の理解の範囲のなかでしか、対象はとらえられないということなんだ。

その人の全人生なんてとうていわからないわけだから。

からしんどい勉強の連続となるし、非常に奥深いと思うんだ。

人物写真にかぎらずカメラの背後の眼が重要だと思う。

なぜなら、対象をいかに見つめるかってことだからね。

 

「カメラの背後の眼」とは、当然田村自身のことになる。

編集部主導とはいえ、田村がこの仕事に取り組むきっかけは、写真家・土門拳にあったと述べている。

 

同い年の二人は、戦前、仕事を助け合う関係だった。

その土門は、戦前から、自分の好きな人物のポートレイトを撮り始めており、田村はそれを大きく意識していたという。

 

こうした考えのもとで撮影された写真は、『現代日本の百人』として文藝春秋新社(*当時)から出版された(1953)。

さらに出版にあわせて、東京の日本橋三越で、個展を開催する。

このとき、被写体となった人物が雑誌掲載時に書いた生原稿を一緒に展示した。

田村によれば、恐らく日本で初めて試みだったという。

 

『現代日本の百人』が出版された同じ年、土門は、それまで撮りためたポートレイトをまとめた『風貌』(アルス)を発表する(1953)。

この偶然に、写真家仲間たちによって、田村と土門の合同出版記念会が開かれた。

雑誌に写真を発表する、私家版程度に自身の写真をまとめる程度が当たり前だった当時、一定のボリュームのある個人写真集が出版社から発売されることは特別な時代だった。

 

じつは、田村の写真集が刊行され、写真展が開催されたのと同じ年、文藝春秋新社の社内に写真部が作られている(1953)。

直木三十五賞芥川龍之介賞の選考委員も務めた佐佐木茂索(2代目・文藝春秋社長)の提案だった。

文藝春秋で本格的に写真撮影が行われるようになったのはこのときになる。

 

その際入社してきたのが、名取洋之助木村伊兵衛の元で学んだ経験を持つ、樋口進だった。

佐佐木は、樋口にこういったという。

 

写真家になるな、写真屋になれ

 

このブロックの最後に、田村茂らしいエピソードを付け加えておこう。

「現代日本の百人」の連載時、宮本百合子共産党幹部)を撮影したものの書籍化の際には、公職追放を理由に編集部の判断で弾かれた。

共産党員であった田村は写真集の出版をやめようかと考えたという。

また、最晩年の太宰治の写真を撮影しており、現在よく知られる頬に手をあてた写真を、「現代日本の百人」にと提案したものの、心中未遂と薬物中毒を理由に編集部の判断で弾かれている。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

田村茂『田村茂の写真人生』(1986/新日本出版社

樋口進『輝ける文士たち 文藝春秋写真館』(2007/文藝春秋

こちら特報部 没後60年 太宰治『ほおづえ』秘話(2008年6月13日/東京新聞

 

f:id:miyakeakito2012:20170805221533j:plain

筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな