書を捨てる
<第3章 メディア化する写真家と非文壇の形成>
---2 非文壇の形成―――ラジオ、テレビ、週刊誌、都市
④―――『書を捨てよ、町へ出よう』(1967)
寺山修司は、これまで戯曲の提供のみだったが、31歳になった1967年、劇団を主宰する。
演劇実験室「天井桟敷」になる。
横尾忠則、のちに東京キッドブラザースを結成する東由多加、詩人・萩原朔太郎の孫・朔美らが創設メンバーとなった。
フランスの映画監督マルセル・カルネの映画『Les Enfants du Paradis(邦題:天井桟敷の人々)』に由来するともいわれる。当初は新宿(アートシアター新宿文化)、その後は、渋谷、麻布十番を拠点に活動を行った。
寺山は、劇団を立ち上げると文壇への宣言とも取れる書物を発表する。
評論集『書を捨てよ、町へ出よう』(1967/芳賀書店)になる。
イラストは横尾忠則。
写真を吉岡康弘が手がけた。
タイトルは、フランスの小説家アンドレ・ジッド(ノーベル文学賞受賞者)の詩文集所収のフレーズが元になっているといわれる。
刊行の年、ベトナム戦争への日本政府(佐藤栄作内閣)の加担に反対した学生たちによる「羽田闘争」が起こっている。
評論集は2年後、『ハイティーン詩集 書を捨てよ、町へ出よう』として、天井桟敷で舞台化された(新宿厚生年金・小ホール)。
舞台は、寺山が学習雑誌『高一コース』『高三コース』(ともに学研)で詩の選者を務めていた投稿コーナーを書籍化した『ハイティーン詩集』(1968/三一書房)が元となり、投稿者は舞台にも立った。
こうしたプロとアマチュアの垣根を取り払う試みは、舞台スタッフ間でも行われる。
デザイナーの和田誠(当時ライトパブリシティ所属)や役者J・Aシーザーらが舞台音楽を担当。
当時シャンソン歌手だった丸山(美輪)明宏の役者初舞台も寺山作品からだった。
寺山は、1960年代より、テレビアニメなどの作詞も手がけていたが、天井桟敷の新人女優で当時17歳のカルメン・マキの歌「時には母のない子のように」(1969)の作詞を手がける。
このときも、作曲を天井桟敷の制作・照明スタッフの田中未知が担当している。
レコードは、前年設立されたばかりのCBS・ソニーから発売され、CBS・ソニーの邦楽の最初の大ヒットに。
役者だったカルメン・マキは、歌手として、同年、レコード大賞の各音楽賞の候補となり、「NHK紅白歌合戦」に出場している。
さらに、天井桟敷は、フランクフルト国際演劇祭など海外遠征も開始。
その活動範囲を国外にも広げていく(1969-)。
寺山がイタリアで賞を受賞したラジオドラマの翻訳を担当した舞台演出家マンフレッド・フーブリヒトの依頼がきっかけだった。
こうしたなかで、『書を捨てよ、町へ出よう』は、映画化も行われた(ATG配給/1971)。
寺山初の長編となったこの映画では、物語のクライマックス、主人公が本名を名乗り、真っ暗な映画館のなかから、作りものの世界から現実の世界へ出よ、と呼びかけた。
映画は、サンレモ国際映画祭グランプリを受賞している(イタリア)。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
寺山修司『戯曲 毛皮のマリー 血は立ったまま眠っている』(2009/角川文庫)
長尾三郎『虚構地獄 寺山修司』(1997/講談社)
九條今日子『回想・寺山修司 百年たったら帰っておいで』(2005/デーリー東北)
久世光彦/九條今日子/宗田安正 責任編集『寺山修司 齋藤槇爾の世界 永遠のアドレッセンス』(1998/柏書房)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな