ミュージシャン小説家を造る

<第5章 そして作家が消えた>

---1 小説家が消えた―――キャラクターから始まる文芸の加速

これまで、出版社は、ポートレイトにこだわり、人名にこだわることで、先行する出版社を乗り越える動きを見てきた(改造社のPR文藝春秋の直木三十五賞・芥川龍之介賞光文社の著者近影角川書店の一挙文庫化など)。

その方法論は、その後、角川書店マガジンハウスにおいて、ひとつの極限に達する。

①―――音楽雑誌化していく文芸雑誌『月刊カドカワ』と見城徹

 

角川春樹の片腕として『野性時代』(現・『小説 野性時代』)で働いた編集者・見城徹は、40代の女性をターゲットとしていた文芸雑誌『月刊カドカワ』(1983年創刊)の編集長に就任する(1985)。

実売わずか6千部。その立て直しが目的だった。

 

自身が惚れぬいた人物たちと仕事をすることを信条とする見城は、『野性時代』編集部時代、数多くのヒット作を生んでいた。

村上龍のデビュー作「限りなく透明に近いブルー」が群像新人文学賞を受賞した際(1976)、新聞記事に掲載された村上のポートレイトを一目見て惚れ、原稿も読まず、連絡先を探し出し、親交を結ぶ。

それは、中上健次と村上の対談集『俺達の船は、動かぬ霧の中を、纜を解いて』(1977/角川書店)へつながった。

大ファンだったという戯曲家つかこうへいの稽古場に何度も足を運び、角川書店と15年間の専属契約を結ぶ(1977)。

編集を担当した、有明夏夫「大浪花諸人往来―耳なし源蔵召捕記事」(1978)、つかこうへい「蒲田行進曲」(1981)、村松友規「時代屋の女房」(1982)など、『野性時代』初出作品から直木三十五賞受賞作を送り出した。

 

見城は、音楽家とも積極的に交流を持つ。

角川春樹の指示を受け、小学館発行の矢沢永吉の自叙伝『成り上がり』(聞き手・糸井重里)を小学館筆頭株主集英社で文庫化される前に角川文庫化(1980)。

ラジオから流れてきた曲に感動し、松任谷由実東芝EMI)に自伝『ルージュの伝言』(1984)を執筆させた。

同じくラジオから流れてきた曲に感動した、当時18歳でプロデビューを飾って大きな話題となっていた尾崎豊CBSソニー)へ猛アプローチ。

出版社から依頼が殺到しているなか、尾崎初の著書『誰かのクラクション』(1985)を出版した。

 

その裏には、見城流のアプローチがあった。

矢沢の事務所社長とは、映画館やテレビでCMを打てるならという条件を飲むことで文庫化を実現(矢沢はCBSソニーから海外進出を念頭にワーナー・パイオニアへ移籍直後)。

松任谷の場合は、赤裸々に語った内容から直前で出版を控えたいという松任谷に当時のライバル中島みゆきに勝てるよう約束し、一晩かけて説得している。

尾崎の場合は、尾崎の所属事務所の先輩ハウンド・ドッグの書籍も出すという取り引きを行っている。

 

こうしたやり方について、見城は、慶応義塾大学在学中に学生運動を行っていた時期が常に頭にあり、27歳で射殺された奥平剛士の生き様が影響していると述べている。

極左組織・日本赤軍の創設メンバーの奥平は、イスラエル政府に仲間の開放を突きつけていたパレスチナ解放人民戦線PFLP)から依頼を受け、テルアビブ空港で乱射事件を起こし、射殺された(1972)。

学生運動に取り組んでいた見城にとって、この奥平の生き様を思えば、何も恐れるものはないという。

 

月刊カドカワ』に戻ろう。

見城は、編集長就任前は、長友啓典(日本デザインセンター出身)のアート・ディレクションで女性の顔のイラストだった表紙を、女優の表紙に変えた(その最初は古手川裕子)。

見城就任以前、著名人が食する連載企画(その最初は風間杜夫)を撮影していた篠山紀信に表紙ポートレイトを託した。

その後、写真企画ページは、数回で終了するが、著名人が著名な女性を写す企画へとなった(その最初は、撮影・中上健次、被写体・都はるみ)。

自身が惚れぬいた音楽家坂本龍一と当時の坂本夫人・矢野顕子の連載「月刊リュウイチ」と「月刊アッコちゃん」の夫婦連載をウリにした。

また、安西水丸池田理代子高橋三千綱(原作)、岡崎京子らの漫画を掲載。

池田には初となる小説も書かせている。

 

大きな転換点となったのは、一人の人物を特集した“総力特集”の取り組みだった。

以後、部数が右肩上がりに伸びていったという。

その最初は、松任谷由実だった(1988)。

この“総力特集”によって誌面が変化していく。

松任谷は、これまで女優が表紙を飾っていたなかで一度だけ表紙となっていたが(1986)、松任谷の表紙と“総力特集”という組み合わせ(1988年1月号)が行われて以後、2月号表紙・安田成美に特集・松任谷由実

3月号はともに矢野顕子

4月号表紙・薬師丸ひろ子に特集・銀色夏生

5月号表紙・石田えりに特集・山田詠美

6月号表紙・鷲尾いさ子に特集・俵万智

以後、今井美樹(7月号)斉藤由貴(8月号)つみきみほ(9月号)大貫妙子(10月号)黒木瞳(11月号)NOKKO(12月号)と7月号以降明確に形作っていく。

 

このとき、見城は、斉藤由貴黒木瞳といった、被写体としてそのキャリアを始めたアイドルや女優に、絵と文を組み合わせた短い文章を書かせている。

すでに誌面では、尾崎豊中村あゆみハミングバード)、渡辺美里(EPIC・ソニー)などの記事を取り上げ始めていたが、文芸雑誌にも関わらず、音楽家を軸に、被写体と文筆が交差していく誌面づくりは、当時の時代背景が可能にしている。

 

見城が『月刊カドカワ』の編集長に就任した頃、NOKKO率いるレベッカCBSソニー)やBOOWY東芝EMI)が登場し、ロックバンドがさらに身近なものとなる。

カラーグラビアを主体とした音楽雑誌『PATi・PATi』が創刊し(1984/CBSソニー出版)、チェッカーズポニーキャニオン大沢誉志幸(EPIC・ソニー)吉川晃司(SMSレコード)尾崎豊らが並置された。洋楽紹介を行う音楽雑誌『ロッキング・オン』の姉妹雑誌となる邦楽雑誌『ロッキング・オン・ジャパン』も創刊された(1986)。

創刊号の表紙・特集は佐野元春(EPIC・ソニー)が飾った。

また、TM NETWORK(EPIC・ソニー)のメンバー木根尚登が、CDアルバムと連動した小説『CAROL』(1989/CBSソニー出版)も発表している。

 

そうした時代、『月刊カドカワ』では、やがて音楽家が小説や絵本を発表していく。

アイドルからの脱皮を図っていた斉藤由貴(ポニー・キャニオン)の創作「夕方から」(1989)。

原由子ビクター音楽産業)の絵本「眠れぬ夜の小さなお話」(1989)。

尾崎豊の長編小説「黄昏ゆく街で」(1990)。

木根尚登6作目の小説となる「武蔵野蹴球団」(1991)。

筋肉少女帯トイズファクトリー)を率いた大槻ケンジの初の小説「新興宗教オモイデ教」(1992)などを掲載した。

小川洋子芥川賞を受賞した翌年、小川が大ファンの佐野元春についての小説を書かせるという試みも行われる(1992)。

 

また、この時期、『月刊カドカワ』では、俵万智の短歌と浅井慎平の写真を組み合わせて掲載した(1987)。

掲載の年、河出書房新社から出た俵の単行本『サラダ記念日』(1987)は、その年ベストセラーの1位(出版指標年報)に。

短歌ブームが起こる。

俵の単行本は他社からの出版が先行したが、このとき、見城は、銀色夏生を『月刊カドカワ』で大々的に取り上げていく。

沢田研二の歌「晴れのちBLUE BOY」(ポリドール/1983)の作詞を手がけた銀色の詩に感動し、すでに銀色自身が撮影した写真を添えた詩集『これもすべて同じ一日』(1986)を角川書店から出していたが、背景はやはり音楽だった。

 

小説を書けそうな人物に小説を書かせる試みは、角川春樹から受け継いだ方法論とはいえ、こうした時代の波と連動していた。

結果、音楽雑誌と見分けのつかない文芸雑誌となった『月刊カドカワ』は、最盛期には18万部まで売り上げたという。

 

その後、見城は、角川春樹の薬物事件による社長解任とともに角川書店を退社。

幻冬舎を設立する。

『ダ・ヴィンチ』の好きな出版社ランキング(①講談社新潮社幻冬舎集英社角川書店)を念頭におきながら、見城は、出版社を興した心境を次のように述べている(2007)。

 

講談社小学館をひっくり返してやろうと思わない限り、やる意味がない。

直木賞芥川賞にしろ、文藝春秋がつくったものでしょ。

その器のなかに幻冬舎が価値を置くことほど、愚かなことはない。

文春の価値では生きている意味もないし、その価値観を変えなければ勝ったことにならない。

 

もちろん、我々は、この言葉から、角川春樹の言葉を思い出すだろう。

 

月刊カドカワ』は、見城退社の5年後、廃刊した(1998)。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

見城徹『編集者という病い』(2007/太田出版

見城徹『異端者の快楽』(2008/太田出版

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

 

赤瀬川原平 登場

<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>

---3 非新聞社系写真雑誌創刊―――芸術のようなもの

②―――芥川賞受賞者・尾辻克彦/美術作家・赤瀬川源平も『写真時代』で連載

 

『写真時代』では、創刊2年目の年、芥川龍之介賞受賞者の連載が始まる。

美術家・赤瀬川原平になる。

 

赤瀬川は、武蔵野美術学校(現・大学)中退後、“ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ”(1960)“ハイレッド・センター”(1963-64)で前衛美術家として活動。

銀座の街頭で白衣を着て怪しげな清掃を行うなど、美術館のなかでの活動に留まらず、日常のなかへ表現を広げた(寺山修司への影響を思い浮かべることは容易だろう)。

千円札を本物そっくりに模倣したことで、有罪判決を受けた「千円札裁判」で一躍有名に(1965-70)。

その後は、村松友視の依頼で『海』に小説を書いたことで(1978)、文壇と交わっていく。

 

赤瀬川は、ペンネーム・尾辻克彦名義で『文學界』に発表した短編小説「父が消えた」(1980)で、発表の翌年、芥川賞を受賞した(受賞時41歳)。

池田満寿夫の4年後の受賞になる。

すでに、尾辻克彦名義の最初の作品「肌ざわり」で(『中央公論』掲載)、中央公論新人賞を受賞(*またしても1979!)。

文壇にとって期待の新人だった。

 

赤瀬川は、『写真時代』では、写真を中心とした連載を行った。

無用の長物となった建造物を撮らえ、“超芸術トマソン”と名づけた。

まったく成果を出さないにも関わらず四番を守り続けた元読売巨人軍の助っ人外国人トマソンに由来する。

 

『写真時代』の編集長・末井昭は、赤瀬川が講師を務めた「美学校」(神保町・1969年創立)に学んだ。

赤瀬川以外も、『写真時代』では、“昭和軽薄体”という言葉で呼ばれる「言文一致」に取り組んだ、赤瀬川門下の南伸坊渡辺和博らが連載を持っており、編集者にも卒業生が多かった。

 

末井は、『写真時代』の編集方針について、次のように述べている。

 

カメラ雑誌なんかで、いい写真といわれるものはなぜあんなに面白くないのだろうか、という疑問があったので、写真を選ぶ基準は、わいせつなもの、面白いもの、あるいはヘンなものということにした。

 

ここで我々は、『カメラ毎日』の編集者・山岸章二が語った「「良い写真」なんていうものはないんだ」の言葉を思い出すだろう。

 

末井は、書店の奥に置かれることの多いエロ雑誌を店頭にももってこられるよう、『写真時代』の表紙にアイドルタレントを起用した(創刊号表紙・三原順子)。

創刊号はほぼ完売。

発行部数はウナギ登りに増え、同傾向のナンパ系写真雑誌ブームを生み出していくことになった。

 

けれども、『アサヒカメラ』は現在残るが、『カメラ毎日』も『写真時代』も今はない。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

末井昭『パチプロ編集長 パチンコ必勝ガイド物語』(1997/光文社)

赤瀬川原平『超芸術トマソン』(1985/白夜書房

 

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非新聞社系『写真時代』創刊

<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>

---3 非新聞社系写真雑誌創刊―――芸術のようなもの

これまで、新聞社系の週刊誌の後発として、出版社系の週刊誌の創刊ラッシュにもふれた。

新聞社系の写真雑誌の明暗がわかれていくなかで、新たな写真雑誌が誕生する。

①―――編集者・末井昭『写真時代』創刊と荒木経惟の神格化

 

土門拳賞の創設と同じ1981年、『写真時代』(白夜書房)が創刊される。

発行元の白夜書房は、明治時代から続く新聞社系でも、戦前、戦後直後に誕生した出版社でもなく、1970年代から流行し始めた、ビニール本、通称“ビニ本”の流れを組む出版社だった。

 

『写真時代』を立ち上げた編集長の末井昭は、写真家・荒木経惟を中心にすえ、雑誌を創刊した。

それ以前に発行していた映画雑誌『ウイークエンドスーパー』(セルフ出版*現・白夜書房)で荒木の写真連載が面白かったことからだったという。

末井は荒木の撮影した写真について、次のように述べる。

 

女の子の陰毛を剃ってその上から毛を描いたり、女の子の体に色を塗ったり、縛ったり、オシッコさせたりして、芸術のような写真を撮っていた。

この芸術のようなものというのが、面白かった。芸術になってしまったら、面白くないのだ。

 

『写真時代』は、結果、エロスとアートが渾然一体となった写真雑誌となった。

荒木のスタイルは、他のカメラマンに刺激を与え、直下型パンチラ写真、日本縦断ナンパ写真、ハメ撮りなどが開発されていったという。

 

荒木は、末井とのコンビによって、写真家として地位を作っていく。

『写真時代』が発禁処分をきっかけに廃刊になる1988年まで、白夜書房から続々と荒木の写真集は出版された。

『男と女の間には写真機がある』『劇写女優たち』『荒木経惟の偽ルポルタージュ』『荒木経惟の偽日記』『イコンタ物語』『ラブホテルで楽写』『センチメンタル・エロロマン 恋人たち』『愛の嵐』(写真時代文庫1)『ライブ荒木経惟』(『写真時代』9月号増刊)『少女世界』『ノスタルジアの夜』『景色1981-1984』(『写真時代』3月号増刊)『東京写真』(『写真時代』9月号増刊)『アラーキーの東京色情日記』(『写真時代』7月号増刊)『東京日記1981-1995』(『写真時代』5月号増刊)荒木陽子共著『酔い痴れて』などになる。

その多さは、木村伊兵衛林忠彦、田村茂が存命中に発表した写真集の少なさからすれば、神格化を起こすには充分な数だった。

 

また、膨大な数の写真集を出版していくなかで、荒木と文芸家たちとの共著も生まれていく。

田辺聖子対談『わが愛と性』(創樹社)桐島洋子伊藤比呂美らの対談集『ARA・KISSラブコール』(パルコ出版)(ともに1982)、中上健次との共著『物語ソウル』(パルコ出版小林信彦との共著『私説東京繁昌記』(中央公論社)(ともに1984)、鈴木いづみとの共著『私小説』(白夜書房/1986)、伊藤比呂美との共著『テリトリー論』(思潮社/1987)などがある。

こちらも荒木の神格化を起こすには充分な冊数だった。

 

このブロックの最後に、その後の荒木についてふれておきたい。

荒木は、1997年、『ダ・ヴィンチ』(1994年創刊)の依頼を受ける。

出版元は、リクルート出版から発展したメディアファクトリー(現・KADOKAWAグループ)。

創刊号の表紙には、「まったく新しい本の情報マガジン」のキャッチコピーが記され、グラフを中心とした総合文芸雑誌になる。

アイドルから俳優へと転身していた本木雅弘が飾った創刊号の表紙では、本木自身のセレクトで、ハンガリー出身のアゴタ・クリストフ悪童日記』(早川書房)が顔の前に掲げられた。

ダ・ヴィンチ』初代編集長・長薗安浩は、広告情報誌のリクルートが書籍広告市場に参入するとみなされ、出版社や文芸家の取材を当初断られたこと、本から入らない本の雑誌がコンセプトだったと振り返っている。

 

ダ・ヴィンチ』創刊3年目、荒木が託されたのが、巻頭企画のポートレイトだった。

アラーキーの裸ノ顔」と題された。

その初期を見ておこう。

第1回のビートたけし以後(1997年5月号)、王貞治原田芳雄山崎努中内功泉谷しげるジャイアント馬場、下中邦彦(元・平凡社社長)。

翌1998年は、市川染五郎、原俊夫(原美術館館長)、町田康旭鷲山野村萬斎、ボリス・ミハイロフ(写真家)、鮎川誠、沢田研二真田広之浅野忠信片岡鶴太郎、Charになる。

総合文芸雑誌であるが、ビートたけし町田康から、このとき、文芸のおかれた位置が浮かんでくるだろう。

荒木は、このとき、土門拳のスタイルに近い、モノクロ撮影で、男性がカメラを見つめる構図を選んでいる(1997-2014)。

 

荒木の写真連載とともに、誌面では「コミック・ダ・ヴィンチ」もスタートする。

第1回目は、山岸涼子のインタビューに、ちばてつやがイラストを描き下ろした。

アラーキーの裸ノ顔」は、その後、ダ・ヴィンチ創刊20周年記念事業として『男 アラーキーの裸ノ顔』(KADOKAWA メディアファクトリー)として写真集にまとめられ、同名の展覧会も開催された(2015/表参道ヒルズ)。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

末井昭『パチプロ編集長 パチンコ必勝ガイド物語』(1997/光文社)

「歴代編集長が振り返る、雑誌「ダ・ヴィンチ」20年史」(2014)

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

岩波書店系 写真・映画に参入

<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>

---2 1979 メディア間の交代劇

⑥―――岩波書店とATG  良心的映画か?  娯楽映画か?

 

ここまで何度となく出てきた、日本アート・シアター・ギルド(ATG)について詳しく見ておきたい。

 

ATGは、戦前から欧米の映画の輸入を行ってきた東和商事(戦後に東和映画へ改称)を率いた川喜多長政の妻・かしこが提唱した。

東宝森岩雄が賛同し、三和興行の3社で設立する(1961)。

「世界の名作を集めて贈る」がキャッチフレーズだった。

ATG関連の映画は、主に、アートシアター新宿文化(現在その場所には角川シネマ新宿とシネマート新宿が建つ)、日本劇場の地下にあった日劇文化(現在その場所には有楽町センタービルが建つ)などで上演された。

 

こうした動きの背景には、大手とは違う、独立プロダクション化の動きもあった。

松竹・東宝大映・新東宝東映・日活の監督たちは、商業映画とは一線を画す作家性の強い芸術映画を目指し始めていた。

1958年を境にテレビの時代となり始め、映画産業の斜陽化が始まっており、低予算・粗悪品が乱発される事態に陥っていたためだった。

 

当初ATGは、芸術系の外国映画の配給・上映が主だったが、外国人映画監督と石原慎太郎監督らのオムニバス『二十歳の恋』(1963)、三島由紀夫・主演・脚本・監督『憂国』(1966)では、配給として関わる。

やがて、外国映画の輸入金額の高騰もあって、1968年を境に、洋画の紹介から、邦画の割合が増えていく。

日活から独立したばかりの今村昌平『蒸発人間』(1967)がその先駆となった。

このとき制作にあたってとられた、1千万(ATG500万+独立プロ500万)という方法が、基本スタイルとなる。

当時の大手の3分の1~5分の1、日活ロマンポルノ(300万)よりは高いという設定だった。

 

ATGで映画を手がけた監督たちを見ていこう。

羽仁進、松本俊夫実相寺昭雄寺山修司田原総一郎若松孝二らは、大手映画会社で助監督経験のないメンバー。

新藤兼人大島渚吉田喜重篠田正浩(松竹出身)、今村昌平(松竹、日活出身)、熊井啓(日活出身)、岡本喜八東宝出身)、増村保造大映出身)、中島貞夫東映出身)ら、撮影所出身のメンバーも参加している。

今村の『蒸発人間』から5年の間だけでも以上のメンバーになる。

 

ATGで日本映画の上映が上回った1968年、岩波ホール(神保町)が誕生する。

岩波ホール支配人・高野悦子岩波書店創業者の長男の妻は実姉)は、外国映画の上映が減少していくなかで、川喜多かしこの呼びかけを受け、ともに外国の名作上映運動「エキプ・ド・シネマ」を主宰する(1974年より)。

ここに、ATGと岩波の動きがつながっていくことになる。

この時期、東和映画は「東宝東和」となっている(1975)。

 

ATGと岩波、東宝と東和がつながった頃、ATGは、横溝正史原作の『本陣殺人事件』を映画化する(1975/監督・高林陽一)。

すでにふれたが、芸術系のATGが、話題の小説を原作とした、最初期の商業路線の作品となった。

続いて、五木寛之原作小説『変奏曲』(新潮社)を同タイトルでATG初のオール海外オケで映画化(1976/監督・中平康/撮影カメラマンは写真家の浅井慎平/製作は『話の特集』編集長・矢崎泰久)。

長谷川和彦監督の中上健次の短編小説「蛇淫」原作『青春の殺人者』(1976)も、この年、中上が芥川賞を受賞しており、この路線だった。

 

岩波とATGとの関わりは、さらに前史がある。

ATG映画の制作について伺い知れるため、見ておこう。

1950年、岩波映画製作所が設立される。

物理学者・中谷宇吉郎の元、科学映像の制作を目的に前年生まれた中谷研究所プロダクションが前身だった。

岩波書店とは資本関係はないが、岩波書店小林勇岩波書店の創業者・岩波茂雄の娘婿で、岩波文庫岩波新書の創刊に携わる)の「いわゆる文化映画を作る」を目的に設立された。

以後、写真、科学系テレビ番組、記録映画を主に手がけていく。

 

小林は、「上映する映画館を持っていないこと」「映画人には癖のある人物が多いこと」から、写真学校を出た若者を育てていく方針をとった。

そして制作実績を積み重ねていくため、実写によるPR映画の製作と普通写真の仕事を母体にし、普通写真の仕事は「岩波写真文庫」の創刊となった。

その中心人物として、戦前、日本工房を率いた名取洋之助が招かれた。

東松照明(第1回日本写真批評家協会新人賞受賞者)、長野重一(のち『朝日ジャーナル』嘱託)らの写真家も働き、8年にわたり、静物写真をまとめている。

 

映画制作としては、監督では、羽仁進・羽田澄子(ともに岩波写真文庫の編集から転身)、黒木和男・土本典昭小川紳介・東陽一(のちに「青の会」を結成)、田原総一郎(のちにジャーナリスト)。

文芸家としては、入江隆則、池央耿、清水邦夫らが在籍した。

そのうち、羽仁進(1963,68,72)、黒木和雄(1966,70,74,75)、田原総一郎清水邦夫(1970)、東陽一(1978,79)など、多くの人材がATGで映画を発表していく(()内はATGでの制作年)。

岩波映画製作所の出身者は、ATGを支える要因ともなっていた。

 

話を1979年に絞ろう。

ここまで見てきたように、映画『限りなく透明に近いブルー』『エーゲ海に捧ぐ』が公開された1979年、ATGでは、岩波映画製作所出身・東陽一監督作品『もう頬づえはつかない』(主演・桃井かおり)を公開する。

原作小説は、見延典子の早稲田大学・文芸科の卒業論文で、前年『早稲田文学』に掲載され、講談社が出版した。

同時期、平岡篤頼が主導する『早稲田文学』~講談社の流れで、三石由起子・田中りえが続けて小説家デビューし、“女子大生作家”ブームが生み出されていく。

この年、ATG社長・佐々木史朗早稲田大学在学中に早稲田自由劇場を設立し、卒業後はTBSへ入社。演劇界・テレビ界・映画界と渡り歩く)は、こう書いた。

 

ことに製作に関する限り、“企業”と“独立プロ”とはもはや正確な反意語とは呼べず、企業イコールメジャーという何かしらの一方的な言葉のひびきもうすれつつある。

(引用者中略)

“企業=俗流の娯楽映画”“独立プロ=良心的な映画”という二元論は既に不毛なのであり、製作の実態をうしないつつある

 

1979年、独立プロの動きも行き詰まりをみせていた。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

『ATG映画の全貌』(1979/夏書館)

朴文順/早稲田文学編集室『平岡篤頼と早稲田文学』(2014)

谷川徹三井上靖『回想 小林勇』(1983/筑摩書房

小林勇『彼岸花 追憶三十三人』(1968/文藝春秋

『私の履歴書 文化人4』より「小林勇」(1983/日本経済新聞社

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

角川書店×電通×ワコール×資生堂×CBS・ソニー

<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>

---2 1979 メディア間の交代劇

⑤―――CBSソニーらが企画  映画『エーゲ海に捧ぐ

 

映画『エーゲ海に捧ぐ』の配給は、ATGとも関わりの深い東宝東和が手がけた。

当時、東宝東和は、“エーゲ海ブーム”を生み出せないかと考えていたという。

 

そのきっかけは、“ディスカバー・ジャパン”を仕掛けた電通藤岡和賀夫を中心とした、ワコールと資生堂をスポンサーとしたクリエイターたちとの旅行だった。

池田満寿夫CBSソニーのプロデューサー酒井政利南沙織郷ひろみキャンディーズ山口百恵らを担当)、画家・横尾忠則、作詞家・阿久悠らがそのメンバーにおり、南太平洋で、広告のアイデアを考えるという贅沢なものだった。

この旅自体が話題にもなり、当時、南太平洋ブームも起こっていたという。

 

エーゲ海ブーム”はそれに次ぐものが目指された。

実際、酒井は、CBSソニーから、南太平洋をイメージしたアルバム『Pacific』(1978)に続いて、エーゲ海をイメージしたアルバム『the AEGEAN SEA (エーゲ海)』(1979)を発売している。

 

エーゲ海に捧ぐ』の小説はそもそも『野性時代』の編集者からの依頼によって書かれたものであり、映画化も、そもそも大掛かりな展開として計画されたものだった。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

池田満寿夫『鳥たちのように私は語った 池田満寿夫対談集』(1977/角川書店

速水健朗『タイアップの歌謡史』(2007/洋泉社

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

野生時代新人文学賞から芥川龍之介賞へ

<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>

---2 1979 メディア間の交代劇

④―――国際的版画家・池田満寿夫  芥川賞受賞者・映画監督デビュー

 

村上龍芥川龍之介賞を受賞した翌年、池田満寿夫が『エーゲ海に捧ぐ』(1977)で芥川賞を受賞する(受賞当時41歳)。

池田は、高校卒業後、独学で版画を始める。

東京国際版画ビエンナーレ展の入賞をきっかけに、ニューヨーク近代美術館で日本人初の個展を開催。

芸術家として話題の人物に(1965)。

渡米・渡欧後、ヴェネチア・ビエンナーレで、日本人として2人目(1人目は棟方志功)となる版画部門の国際大賞を受賞(1966)。

国際的に知られる芸術家となった。

 

エーゲ海に捧ぐ』は、ローマを舞台に、主人公の青年と3人の女性との愛欲の日々を描いた、池田の半自叙伝的な物語になっている。

野性時代』から依頼されて連載し、第3回野性時代新人文学賞を受賞したのがこの小説だった(1976)。

その翌年、芥川賞を受賞した(三田誠広「僕って何」と同時受賞)。

村上と同じく、池田も装丁を自ら手がけた単行本(角川書店)は、ベストセラーの7位(出版指標年報)を記録した。

 

1979年、池田が脚本・監督を手がけ、『エーゲ海に捧ぐ』は、映画公開される(製作は元・大映の製作主任・熊田朝雄)。

主演は、のちにポルノ女優チチョリーナとして有名となるイロナ・スターラ。

制作国はイタリアと日本。

映画の最後には、池田の何度目かの事実婚の女性となる佐藤陽子のバイオリン曲が流れた。

さらに、ジュディ・オングが歌う「エーゲ海のテーマ 魅せられて」(CBSソニー)が作られ、イロナ・スターラが登場するワコールの下着のCMにも利用されている。

 

「魅せられて」は、映画化の年、2年目を迎えたばかりのランキング形式の音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)で最高位4位を記録。

レコード大賞(TBS系)も受賞。

ジュディ・オングは「NHK紅白歌合戦」に初出場を果たしている(我々は、CBS・ソニーからレコードデビューした、天井桟敷のカルメン・マキを思い出すだろう)。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

池田満寿夫『鳥たちのように私は語った 池田満寿夫対談集』(1977/角川書店

速水健朗『タイアップの歌謡史』(2007/洋泉社

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

村上龍 登場

<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>

---2 1979 メディア間の交代劇

③―――キティ・フィルム初の映画監督  芥川賞受賞者・村上龍

 

キティ・フィルムが誕生しようとしていた頃、村上龍が「限りなく透明に近いブルー」(1976)で芥川龍之介賞を受賞する(受賞当時24歳)。

 

村上は、出身地・長崎県佐世保市で、ヒッピー文化をもろに受けた学生時代を過ごしたのち、上京後、美学校へ入学(半年で退学)。

その後は武蔵野美術大学で学ぶ(中退)。

学生時代の体験を基にした「限りなく透明に近いブルー」は、文芸雑誌『群像』(1946年創刊/講談社)に掲載され、群像新人文学賞を受賞。

同年、芥川賞の受賞となった。

装丁も自ら手がけた単行本(講談社)は、その年のベストセラーの1位(出版指標年報)となった。

 

村上は、芥川賞を受賞した頃、できたばかりのキティ・フィルムに関わり、映画のプロットの提案を行っていた。

けれども長谷川は乗ってこなかった。

そこで、痺れをきらした多賀が、村上の『限りなく透明に近いブルー』の映画化を決断した。

こうして、1979年、公開されたのが、『限りなく透明に近いブルー』(配給・東宝)だった。

芥川賞受賞者の華々しい映画監督デビューという計画ではなかった。

 

音楽事務所からスタートしたキティ・フィルムは、公開の同年、キティから、井上陽水小椋佳らの演奏を含むサウンドトラック盤を発売。

映画は、音楽映画的な装いともなった(キティ・フィルムの取り組みは、角川春樹事務所との共同製作の東宝配給映画『セーラー服と機関銃』(1982)のヒットで結実する)。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

古東久人編集『相米慎二 映画の断章』(1989/芳賀書店

『ATG映画の全貌』(1979/夏書館)

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな