多賀英典 登場

<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>

 ---2 1979 メディア間の交代劇

②―――レコード会社から独立 映画事業へ参入  キティ・フィルム

 

老舗の文芸出版社がスター写真家に依頼するようになった頃、映画製作に新たな企業が参入する。

 

戦後の映画産業への異業種参入の事例は、すでにふれた角川春樹だけに限らない。

それ以前にもテレビを拠点とした渡辺プロダクションクレイジーキャッツの映画を中心に、ホリプロ森昌子桜田淳子山口百恵の“花の中三トリオ”の映画を中心に、芸能事務所が映画の製作に関わっている(ともに配給は東宝)。

そうした流れと入れ替わるように、大映は倒産(1971)。

日活はロマンポルノへ(1971)。

東宝は制作機能を5つに分社化(1971)して配給中心に。

東映は時代劇路線からテレビ放送しにくい任侠路線へと舵を切っていく(その後は、角川映画と提携・配給へ)。

松竹は『男はつらいよ』シリーズ(1969年より)の独自路線を歩んでいく。

 

こうした時代、映画事業へ参入した一人が、多賀英典だった。

外資系のレコード会社ポリドールのディレクターだった多賀は、井上陽水小椋佳など当時台頭してきたフォーク系の音楽家を担当し、ヒット曲を生み出した。

そして、キティ・ミュージック・コーポレーションとして独立(1972)。

来生たかおカルメン・マキ&OZらも所属した。

 

やがて、多賀は、映画製作に乗り出していくことになる。

設立メンバーには、日活出身の長谷川和彦相米慎二らが名を連ねた。

独立プロ化が進むなか、日活を首になった長谷川は、芥川龍之介賞受賞者・中上健次の短編小説「蛇淫」(河出書房新社)原作『青春の殺人者』で、今村プロ・綜映社・ATGの制作、ATG配給により、映画監督デビューしていた(1976)。

青春の殺人者』は、公開の年、『キネマ旬報』でその年の日本映画のベストワンに選定。

長谷川は30歳での映画監督デビューとなったが、徒弟制度がまだまだ強固で技術を独占していた映画界で、そのことも話題になった。

 

こうした転換期のなか、多賀は、長谷川の映画を撮るために、キティ・フィルムの設立を進めた。

けれども、キティ初の映画が生まれるまでには、時間がかかった。

相米によれば、当初、どんなプロットを提案しても、長谷川が乗らなかったという。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

古東久人編集『相米慎二 映画の断章』(1989/芳賀書店

『ATG映画の全貌』(1979/夏書館)

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

写真家が文芸家を乗り越えた

<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>

  ---2 1979 メディア間の交代劇

売上げの低迷していた写真雑誌の世界で木村伊兵衛写真賞が創設された頃、文芸雑誌では、ポートレイト企画のリバイバルが行われる。

そして、斜陽化の始まっていた映画産業には、角川春樹だけでなく、さらに新たな企業が参入していく。

①―――篠山紀信撮影  『小説新潮』のリバイバル企画

 

1974年、小学館は、総合男性雑誌『GORO』を創刊する(1992年まで)。

翌年、篠山紀信は、“激写”シリーズを始めた。

当時のトップ・アイドル山口百恵が第1回の被写体となった。

以後、篠山は、同シリーズで、一般女性のセミヌードや著名なアイドルのきわどい写真を撮影し続けた。

掲載した写真をまとめた写真集『激写・135人の女ともだち』(1978/小学館)はベストセラーとなり、主要都市で展覧会が開催される。

“激写”は、商標登録もされた(1980)。

 

このヒットから、小学館では、『GORO』の編集者・島本脩二らが、篠山をメインにすえた写真雑誌『写楽』を創刊する(1980-85)。

篠山は、この時期、『明星』(集英社)の表紙も手がけており、集英社に続いて、その親会社だった小学館は、篠山の拠点となっていく。

 

小説新潮』(新潮社)は、スター写真家となっていた篠山に、文芸家のポートレイトの連載を依頼する。

1979年からスタートとした「日本の作家」と題したシリーズになる。

ここで、木村伊兵衛林忠彦田村茂土門拳細江英公を思い起こそう。

彼らが文芸家のポートレイトを撮影したのは、写真家として著名になる以前のことだった。

1979年、このとき著名な写真家によって著名な文芸家が撮影される時代へとなった。

“激写”の延長線上に文芸家全般が置かれたともいえるかも知れない。

 

「日本の作家」シリーズの初年度に撮影された文芸家は次になる。

当時の時代が伺える。

1月号…井上靖、2月号…松本清張、3月号…有吉佐和子、4月号…池波正太郎、5月号…大岡昇平、6月号…石川達三、7月号…円地文子、8月号…吉行淳之介、9月号…新田次郎、10月号…曽野綾子、11月号…井上ひさし、12月号…井伏鱒二

また、「日本の作家」では、ポートレイトにエッセイが添えられた。

こちらも初年度の担当者を見ておこう。

1月号…北杜夫、2月号…和田勉、3月号…虫明亜呂無、4月号…江國滋、5月号…丸谷才一、6月号…戸川幸夫、7月号…大庭みな子、8月号…長部日出雄、9月号…山田智彦、10月号…三好京三、11月号…宇野誠一郎、12月号…藤原審爾

2年目、3年目に入ると、エッセイを担当した、藤原審爾吉村昭北杜夫らも被写体にもなっていき、文壇交遊録的装いを見せていく。

 

「作家の仕事場」のタイトルにこだわった篠山は、新潮社系以外の文芸家にも被写体を広げていった。

結果、「作家の仕事場」は、「往復書簡」「日本人の仕事場」というかたちへと発展していき、15年にわたり続いた。

 

篠山は、このシリーズを撮影するにあたり、次のように考えたという。

 

なぜか文士写真というのは、いつもモノクロなんですよ。

それも大型カメラで、きちんとライティングして精密描写。

つまりそれは必然的に、「写真家=偉大な芸術家」が撮った「文学者=偉大な芸術家」の肖像写真になる。

僕はまったく違った手法で取ることにしたんです。

カラー、小型カメラ、なるべく自然光、それに細密描写じゃなくて雰囲気描写。

これで決定的にこれまでの文士写真とは変わりましたね。

みんな作家をいかにも神の如く偉そうに撮ってるけど、そういうもんでもないだろう。

同じ人間なんだから生身の作家をよく見て撮ればいいんじゃないかと考えたわけです。

 

ここで、我々は、木村伊兵衛がライカを手に文芸家のポートレイトを撮影した際に述べた言葉を思い出すだろう。

篠山は、木村の言葉を、逆説的なかたちでリバイバルしている。

 

また、「雰囲気描写」と述べた篠山は、撮影にあたり、唯一の注文をつけた。

それは、「書斎を見せてほしい」というものだった。

すべての文芸家から了承を得られはしなかったが、書斎での執筆風景がカメラに収められた。

ここで,、我々は、林忠彦が写真屋の写真と報道的写真を重ね合わせた言葉も思い出すだろう。

 

実際、「日本の作家」シリーズは、およそ30年前、林忠彦撮影による『小説新潮』巻頭グラビア“文士シリーズ”の系譜にある。

篠山は、連載時、「土門拳林忠彦木村伊兵衛」のことが念頭あったと語り、その名指しの順に篠山がどのように文芸家の写真をイメージしていたか伺えるだろう。

つまり、先の引用は、土門拳への批判的な取り組みだった。

 

先行事例があるため、すぐには気乗りがしなかったという篠山だったが、新潮社出版部長・新田敞の「カラーで作家の写真を」という提案で、ようやく乗り出せたという。

 

篠山は、さらに続ける。

 

僕の撮り方は、写真家のスタイルを押しつけるじゃなくて、あくまで相手に喜んでいただけるように撮る。

(引用者中略)写真というのは相手がいて初めて写るんだし、それも機械が動いて撮るものですよ。

それを自己の主体性なんて言ってたら駄目です。

 

ここで、我々は、林忠彦へ土門拳が行った批判「いちいち雑誌に合わせることはない」を思い出すだろう。

やはり、篠山は、土門へ批判的だった。

 

では、篠山にできることは何なのだろうか?

荒木経惟との対談で篠山は次のように述べている。

 

僕は時代と伴走していたいという気分がある。

だから、その時代のカメラでとる。

 

そのひとつに、篠山が、“シノラマ”と呼んだものがある。

複数のカメラをセッティングし、同時に、ときに時間もずらして、撮影を行う方法も開発している(1983)。

 

「作家の仕事場」で撮影された写真は、1986年、同名で単行本化(新潮社)。

さらにその10年後、『定本・作家の仕事場』として発売された。

その際、134人を選び、掲載順は文芸家の生年月日順に再構成する。

そして新たに柳美里のポートレイトを撮り下ろし、福田和也のエッセイを加え、計135名とした。

自身の写真集『激写・135人の女ともだち』を意識した数だった。

やはり“激写”の延長線上だった。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

篠山紀信『作家の仕事場』(1986/新潮社)

篠山紀信『写真は戦争だ! 現場からの戦況報告』(1998/河出書房新社

篠山紀信『定本・作家の仕事場 昭和から平成へ読み継がれる日本の作家一三五人の肖像』(1996/新潮社)

 荒木経惟写真対談集『純写真から純文学へ』(2000/松柏社

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

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青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

二枚目文芸家を角川書店の看板に

<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>

---1 メディア間格差を狙え―――単行本と文庫、映画とテレビ

⑤―――二枚目・森村誠一を起用

 

さらに、『犬神家の一族』のヒットと『野性時代』でのジャンル間格差が応用される。

横溝正史の次として、森村誠一角川春樹は捉える。

 

森村は、青山学院大学卒業後、ホテルマンを経て文芸家に。

『高層の死角』(1969/講談社)で江戸川乱歩賞受賞。

松本清張登場以後、推理小説の拠点となっていた光文社から『新幹線殺人事件』(1970/光文社)を上梓し、日本推理作家協会賞受賞作となった『腐食の構造』(1973/毎日新聞社)も発表しており、その名を確立していた。

 

角川春樹は、森村を選んだ理由について、「作品の点数がそろっていたこと」「横溝と対極的な都会的な作家であること」「角川書店で全作品を独占できること」「キャンペーンに協力してくれること」に加えて、「容貌とか雰囲気が絵になる作家が望ましいこと」と述べている。

横溝との作風の違いに加えて、森村のポートレイトが大切だった。

 

こうして森村の作品が角川文庫化されていくと同時に、『野性時代』の連載では、森村誠一に力が入れられていく。

その森村の『野性時代』初出となったのが、棟居刑事シリーズ初登場作品となった「人間の証明」(1977)だった。

発表の同年、角川春樹制作総指揮のもと、東映で映画化(棟居役は松田優作)。

ジョー山中が歌う主題歌「人間の証明のテーマ」(作詞・ジョー山中、作曲・大野雄二、発売ワーナー・パイオニア)も効果的にもちいた。

この年、『人間の証明』は、ベストセラーの6位(出版指標年報)となった。

このとき、映画雑誌『バラエティ』も創刊している(1977-86)。

 

映画化の際、「母さん、僕のあの帽子、どうしたでしょうね」「読んでから見るか、見てから読むか」といったコピーを角川春樹自ら考え、文庫本の帯にも記した。

当時、「本をモノ扱いする」という批判もあったというが、角川春樹にとって文庫本は気軽に捨ててもよいものだった。

人間の証明』も、横溝作品と同じく、毎日放送系で、同時期にテレビドラマ化されている(棟居役は林隆三)。

 

松本清張は、『砂の器』(光文社)を発表して以来(1961)、高額納税者公示制度“長者番付”(国税庁)の作家部門で1位をほぼ独占してきた。

けれども、『人間の証明』が出版された年、1位を森村誠一、2位を横溝正史、3位に松本清張と、角川書店が力を注いだ二人が追い抜いた(1977年度)。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

角川春樹『わが闘争 不良青年は世界を目指す』(2005/イーストプレス

 

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青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

角川書店発の小説家

<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>

---1 メディア間格差を狙え―――単行本と文庫、映画とテレビ

④―――文芸雑誌『野性時代』創刊  小説家を作れ

 

角川書店による新しい本の売り方は、新しい文芸雑誌作りにももちいられた。

角川春樹が社長に就任する前年、角川書店は、文芸雑誌『野性時代』(現・『小説 野性時代』)を創刊する(1974)。

角川創立30周年の年にあたった。

編集長を角川春樹自身が務め、新たな誌面作りが行われた。

 

まず、角川春樹自身による、「魏志倭人伝」に基づいて朝鮮半島から北九州を船・野性号で横断する試みと連動していた。

先行する試みには、石原慎太郎のラビット・スクーターでの南米1万キロ横断(1960)、堀江謙一のヨットで単独太平洋横断(1962)などがある。

デザイン面では、資生堂、パルコの広告デザインとして一世風靡をしていたアート・ディレクター石岡瑛子を起用した。

 

創刊にあわせて、角川小説賞・日本ノンフィクション賞・野性時代新人文学賞を創設する。

角川小説賞は、角川から出版されたものを対象に。

野性時代新人文学賞は、『野性時代』に掲載されたものを対象に。

日本ノンフィクション賞のみ、自社商品にとらわれない賞だった(現在、この3つの賞はない)。

 

この雑誌の創刊以前までは、映画原作本の翻訳やノベライズ、他社の単行本のヒット作の文庫化などで、角川書店は、オリジナルの小説を取り扱っていなかったという。

そこで、角川春樹は、ジャンル間格差を利用していく。

小説は書いてはいないものの、すでに文筆では名が出ており、小説を書けるであろう人物に声をかける。

翻訳家でエッセイストだった片岡義男、国際的に活躍していた版画家で雑誌のエッセイが好評だった池田満寿夫、戯曲家のつかこうへいらに『野性時代』で小説を書かせた。

我々は、『中央公論』の滝田樗陰と村松梢風『海』の吉田好男と加納典明を思い出すだろうが、角川春樹は片岡と池田に自社主催の賞を受賞させている。

第1回の谷克二に続いて、片岡は第2回、池田は第3回の野性時代新人文学賞を受賞している。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

角川春樹『わが闘争 不良青年は世界を目指す』(2005/イーストプレス

見城徹『編集者という病い』(2007/太田出版

見城徹『異端者の快楽』(2008/太田出版

 

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青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

角川映画 誕生

<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>

  ---1 メディア間格差を狙え―――単行本と文庫、映画とテレビ

③―――大手出版社を追い越すために  映画参入とテレビの連動

 

1975年、角川源義が亡くなり、長男・春樹が社長に就任する。

角川春樹は、横溝作品『八つ墓村』を、松竹とともに映画化に取り組む。

東映で一度映画化(1951)されていたが、この頃、松本清張原作の松竹映画『砂の器』(1974/監督・野村芳太郎)がヒットしていたからだったという。

砂の器』は光文社のカッパ・ノベルスになる。

 

八つ墓村』の映画化に合わせて、角川春樹は文庫のフェアを行おうとしたが、映画製作の遅れで、この計画は流れてしまう(松竹映画の公開は1977年。監督は野村芳太郎。音楽は芥川龍之介の三男・也寸志。金田一役は渥美清)。

そこで、角川春樹事務所を立ち上げる。

同じ横溝作品『犬神家の一族』(1950年*講談社『キング』初出)の映画化を、製作・角川春樹事務所、配給・東宝で行った(1976/監督は市川崑*金田一役は石坂浩二)。

当時、山崎豊子が『週刊新潮』で連載し、新潮社から単行本化されていた『華麗なる一族』(1973)が東宝で映画化されており(1974/監督・山本薩夫)、ヒットしていたことも選定の基準となったという。

ここで、我々は寺山修司の写真集『犬神家の人々』(1975)も思い出すだろう。

 

「活字・映像・音楽」にこだわった角川春樹は、音楽には、大野雄二(のちにアニメ『ルパン三世』のテーマを作曲)を起用し、中東が起源ともいわれるハンマー・ダルシマーを使った耳に残る主題曲を制作・販売(ビクター)。

テレビやラジオでの大量のCMを行う。

こうしたメディア攻勢は、当時の映画関係者は後発のテレビを嫌っていたが、そのテレビを積極的に活用しない手はないと感じていたからだという。

このあたりからようやく、神吉晴夫、寺山修司の影が消えていく。

映画公開と同時に“横溝正史フェア”として、全国縦断“角川文庫祭”も行っている。

 

角川春樹のテレビの活用は、CMだけでなく、テレビドラマとも連動させた。

犬神家の一族』『本陣殺人事件』など(1977)、『八つ墓村』など(1978)を毎日放送系で2年にわたって展開していく(*金田一役は古谷一行)。

角川映画による横溝作品の2作目、東映配給『悪魔が来たりて笛を吹く』(1979/監督は鈴木英夫*金田一役は西田敏行)では、テレビCMに横溝本人も登場させた。1981年には、現在まで続く、横溝正史賞(現・横溝正史ミステリ大賞)も創設した。

その翌年には、すでに創刊していた映画雑誌『バラエティ』から発展させた、テレビ情報雑誌『ザテレビジョン』も創刊している。

さらに、文庫にはさむ、しおりを映画の割引券とすることで、宣伝と印刷代のコストを下げる一石二鳥の試みも行っている。

 

角川春樹は、こうした取り組みについて、当時の部下・見城徹(現・幻冬舎社長)にこう話したという。

 

新潮社や講談社小学館に追いつこうと思ってまともに勝負したら、五十年はかかる。だからこそ新しい本の売り方を考えることが重要なんだ。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

角川春樹『わが闘争 不良青年は世界を目指す』(2005/イーストプレス

見城徹『編集者という病い』(2007/太田出版

見城徹『異端者の快楽』(2008/太田出版

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

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青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな

角川春樹と神吉晴夫

<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>

---1 メディア間格差を狙え―――単行本と文庫、映画とテレビ

②―――角川文庫と光文社の影

 

角川春樹は、外国映画関連本を文庫化する際、それまでセロハン紙にくるむのが一般的だった文庫に、独自の企画として、カラーの表紙をつけた。

我々は、ここで、光文社の神吉晴夫が生み出した新書・カッパ・ブックスのことを思い出すだろう。

 

さらに、角川春樹は文庫化を、次のように推し進めた。

他社から出た単行本のヒット作を、文庫化の許可を著者から取り付け、時間を置かずに文庫化を行う。

単行本は、必ずしも文庫化されるわけではなく、文庫化は人気の証であるが文庫化までに時間がかかる、その時間差を狙った。

 

当時のことを角川春樹は、次のように述べている。

 

文庫本のファッション化…それまでの純文学志向、名著の厳選という岩波文庫型の出版社から読者へという一方方向から、読者のニーズを創造していく

 

“ニーズの創造”から、我々は、神吉晴夫の“創作出版”という言葉を思い出すだろう。

 

角川文庫の最初のシリーズとなったのは、推理小説家・横溝正史になる。

横溝は、実家の薬屋を継ぐべく大阪薬学専門学校(現・大阪大学薬学部)で学び、執筆活動を行う。

戦前は、江戸川乱歩の招きで雑誌『新青年』(博文館)の編集者も務めた。

戦後、金田一耕助シリーズ第1作となる、岡山県の日本家屋での密室殺人を描いた『本陣殺人事件』(青珠社)で、江戸川乱歩が創設した第1回探偵作家クラブ賞(現・日本推理作家協会賞)を受賞(1948)。その名が知られていくことになる。

やがて社会派推理小説家・松本清張の登場によって忘れ去られていったともされるが、少年漫画誌週刊少年マガジン』(1959年創刊/講談社)で影丸穣也が作画を行った「八つ墓村」の漫画化(1968)によって再び人気に火が付く。

講談社から全集(全10巻)も刊行されることになった(1970)。

 

当初、角川春樹は、江戸川乱歩の作品の文庫化を望んだが、版権が抑えられていた。

戦後は神吉晴夫の光文社が持ち、松本清張の台頭後はポプラ社へ移行していた。

そのため、横溝正史になったというが、『八つ墓村』の角川文庫化以降(1971)、徐々に点数を増やしていく。

表紙イラストを杉本一文が手がけ、イメージの統一を図っていく。

 

こうした背景には、電通藤岡和賀夫の企画による、当時、日本中をにぎわせていた国鉄(現・JR)の国内旅行のキャンペーン“ディスカバー・ジャパン”による日本再発見の動きもあったという。

ここでも、我々は、カッパ・ノベルス誕生のきっかけとなった松本清張の『点と線』が鉄道ミステリーだったことを思い出すだろう。

 

横溝作品の角川文庫化が進むなかで、横溝映画が制作されていく。

横溝原作の『本陣殺人事件』は戦後すぐに映画化されていたが(東横映画/1947*監督・松田定次)、再び、日本アート・シアター・ギルド(ATG)によって映画化される(1975/監督・高林陽一)。

芸術系を理想としたATGが、話題の小説を原作とした商業路線へ切り替えた年の作品だった。

このとき角川春樹は、映画に宣伝協力費として出資し、角川文庫に横溝作品計25点をそろえた。

そして、新聞広告をうち、“横溝フェア”を実施した。

ここでも、我々は、光文社の神吉晴夫の松本清張の新聞広告を思い出すだろう。

 

角川春樹が、文庫化を推し進めたのは、ビジネスの側面だけでなく、ある体験があった。

アメリカでペーパーバックがトイレなどで読み捨てられているのを見たこと、自身が旅先で文庫本を読み捨てていたことから、本は読み捨てでもよいのではという考えがあったという。

ここで、我々は、寺山修司も思い出すだろう。

 

結果、角川文庫の躍進によって、文庫市場には、中公文庫(1973)、文春文庫(1974)、集英社文庫(1976)の老舗を含む出版社が多数参入している。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

角川春樹『わが闘争 不良青年は世界を目指す』(2005/イーストプレス

『ATG映画の全貌』(1979/夏書館)

 

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角川書店 登場

<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>

---1 メディア間格差を狙え―――単行本と文庫、映画とテレビ

写真家のメディア化非文壇の形成は、出版社のありようも変えて行く。

さらに、これまで親密な関係を築いてきた映画会社とのありようも変えて行くことになる。

①―――後発・角川書店の戦略  外国映画の原作本の翻訳から

 

1945年、角川源義角川書店を創業する。

角川源義は、『改造』に掲載された折口信夫の論文に触れ、國學院大學に進み、折口に師事した。

国文学者の道を目指すも、中学校で教職を得た。

戦後になって、出版の道へと進んだ。

 

角川書店は、元・岩波書店の編集者で歌人の佐藤佐太郎『歌集 歩道』から始まった(1946)。

戦後復興のなかで、角川源義は、先行する岩波文庫新潮文庫に続いて、角川文庫を創刊する(1949)。

第1回配本は、ドストエフスキー罪と罰』。

やがて、B6版から、現在主流となっているA6版に改装し、文庫ブームが起こったという(1950)。

 

同じ頃、全50巻『世界文学全集』(1950/河出書房*現・河出書房新社)に続いて、角川書店は、『昭和文学全集』(1952/全60巻)を刊行する。

講演会やサイン会を開催。

宣伝車や飛行機まで使った大宣伝を行ったという。

我々は改造社のPRを思い出すだろう。

結果、“円本”ブームの再来といえる全集ブームが起こる。

『現代世界文学全集』(新潮社)『現代日本文学全集』(筑摩書房)『世界少年少女文学全集』(創元社)『少年少女世界文学全集』(講談社)などが刊行された。

 

こうして角川書店は、文芸出版社の道を歩みだすが、しかし、実態は、辞書、教科書の販売が生業だったという。

 

そんな状況に、長男・春樹が変化をもたらしていく。

春樹は、早稲田大学に合格するも、父の命によって國學院大學で学んだのち、他社で修行期間を経て家業に就いた。

 

角川春樹は、『カラー版 世界の詩集』(1967/全20巻)に、文学座出身の岸田今日子らが朗読するソノシートをつけ、これがヒット。

その後、「活字・映像・音楽」のミックスに取り組む。

当時、アメリカ映画『卒業』(日本公開1968年)ではサイモン&ガーファンクルの音楽、アメリカ映画『ある愛の詩』(日本公開1971年)ではフランシス・レイの音楽が、それぞれ効果的にもちいられており、その相乗効果によって映画や出版物がヒットしていたことに気づいたためだった。

実際、国内では、映画『卒業』の主演ダスティ・ホフマンを撮らえた映画の一場面を表紙に使った同名の原作本(1970/早川書房)が売れていたという。

新興のCBSソニーの第1回LPとなったサントラ版もヒットしていた。

 

そこで、角川春樹は、外国映画の原作小説の翻訳本やノベライズを発行していく。

新刊をいちから出すより翻訳本はコストがかからない利点もあった。

映画『ある愛の詩』公開時には角川春樹自ら原作者を日本に招くキャンペーンを行ったが、映画会社の宣伝との相乗効果を利用できた。

映画と本をリンクさせた結果、ヒットへ繋がった。

映画『ある愛の詩』の原作本『ラブ・ストーリィ』(1970/角川書店)は、出版の翌年、ベストセラーの8位(出版指標年報)を記録する。

こうして生み出された角川書店の映画関連本は、一時は、紀伊国屋書店の文庫ベストセラーの10位までを独占したこともあったといい、角川キネマと揶揄されたほどだったという。

 

角川春樹の試みは、ここまでふれてきた出版社とは違い、出版社が映画会社を利用するかたちとなった。

 

 

*原典:

私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)

*主な参考資料:

角川春樹『わが闘争 不良青年は世界を目指す』(2005/イーストプレス

 

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筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。

収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな