非新聞社系『写真時代』創刊
<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>
---3 非新聞社系写真雑誌創刊―――芸術のようなもの
これまで、新聞社系の週刊誌の後発として、出版社系の週刊誌の創刊ラッシュにもふれた。
新聞社系の写真雑誌の明暗がわかれていくなかで、新たな写真雑誌が誕生する。
土門拳賞の創設と同じ1981年、『写真時代』(白夜書房)が創刊される。
発行元の白夜書房は、明治時代から続く新聞社系でも、戦前、戦後直後に誕生した出版社でもなく、1970年代から流行し始めた、ビニール本、通称“ビニ本”の流れを組む出版社だった。
『写真時代』を立ち上げた編集長の末井昭は、写真家・荒木経惟を中心にすえ、雑誌を創刊した。
それ以前に発行していた映画雑誌『ウイークエンドスーパー』(セルフ出版*現・白夜書房)で荒木の写真連載が面白かったことからだったという。
末井は荒木の撮影した写真について、次のように述べる。
女の子の陰毛を剃ってその上から毛を描いたり、女の子の体に色を塗ったり、縛ったり、オシッコさせたりして、芸術のような写真を撮っていた。
この芸術のようなものというのが、面白かった。芸術になってしまったら、面白くないのだ。
『写真時代』は、結果、エロスとアートが渾然一体となった写真雑誌となった。
荒木のスタイルは、他のカメラマンに刺激を与え、直下型パンチラ写真、日本縦断ナンパ写真、ハメ撮りなどが開発されていったという。
荒木は、末井とのコンビによって、写真家として地位を作っていく。
『写真時代』が発禁処分をきっかけに廃刊になる1988年まで、白夜書房から続々と荒木の写真集は出版された。
『男と女の間には写真機がある』『劇写女優たち』『荒木経惟の偽ルポルタージュ』『荒木経惟の偽日記』『イコンタ物語』『ラブホテルで楽写』『センチメンタル・エロロマン 恋人たち』『愛の嵐』(写真時代文庫1)『ライブ荒木経惟』(『写真時代』9月号増刊)『少女世界』『ノスタルジアの夜』『景色1981-1984』(『写真時代』3月号増刊)『東京写真』(『写真時代』9月号増刊)『アラーキーの東京色情日記』(『写真時代』7月号増刊)『東京日記1981-1995』(『写真時代』5月号増刊)荒木陽子共著『酔い痴れて』などになる。
その多さは、木村伊兵衛、林忠彦、田村茂が存命中に発表した写真集の少なさからすれば、神格化を起こすには充分な数だった。
また、膨大な数の写真集を出版していくなかで、荒木と文芸家たちとの共著も生まれていく。
田辺聖子対談『わが愛と性』(創樹社)桐島洋子・伊藤比呂美らの対談集『ARA・KISSラブコール』(パルコ出版)(ともに1982)、中上健次との共著『物語ソウル』(パルコ出版)小林信彦との共著『私説東京繁昌記』(中央公論社)(ともに1984)、鈴木いづみとの共著『私小説』(白夜書房/1986)、伊藤比呂美との共著『テリトリー論』(思潮社/1987)などがある。
こちらも荒木の神格化を起こすには充分な冊数だった。
このブロックの最後に、その後の荒木についてふれておきたい。
荒木は、1997年、『ダ・ヴィンチ』(1994年創刊)の依頼を受ける。
出版元は、リクルート出版から発展したメディアファクトリー(現・KADOKAWAグループ)。
創刊号の表紙には、「まったく新しい本の情報マガジン」のキャッチコピーが記され、グラフを中心とした総合文芸雑誌になる。
アイドルから俳優へと転身していた本木雅弘が飾った創刊号の表紙では、本木自身のセレクトで、ハンガリー出身のアゴタ・クリストフ『悪童日記』(早川書房)が顔の前に掲げられた。
『ダ・ヴィンチ』初代編集長・長薗安浩は、広告情報誌のリクルートが書籍広告市場に参入するとみなされ、出版社や文芸家の取材を当初断られたこと、本から入らない本の雑誌がコンセプトだったと振り返っている。
『ダ・ヴィンチ』創刊3年目、荒木が託されたのが、巻頭企画のポートレイトだった。
「アラーキーの裸ノ顔」と題された。
その初期を見ておこう。
第1回のビートたけし以後(1997年5月号)、王貞治、原田芳雄、山崎努、中内功、泉谷しげる、ジャイアント馬場、下中邦彦(元・平凡社社長)。
翌1998年は、市川染五郎、原俊夫(原美術館館長)、町田康、旭鷲山、野村萬斎、ボリス・ミハイロフ(写真家)、鮎川誠、沢田研二、真田広之、浅野忠信、片岡鶴太郎、Charになる。
総合文芸雑誌であるが、ビートたけし、町田康から、このとき、文芸のおかれた位置が浮かんでくるだろう。
荒木は、このとき、土門拳のスタイルに近い、モノクロ撮影で、男性がカメラを見つめる構図を選んでいる(1997-2014)。
荒木の写真連載とともに、誌面では「コミック・ダ・ヴィンチ」もスタートする。
第1回目は、山岸涼子のインタビューに、ちばてつやがイラストを描き下ろした。
「アラーキーの裸ノ顔」は、その後、ダ・ヴィンチ創刊20周年記念事業として『男 アラーキーの裸ノ顔』(KADOKAWA メディアファクトリー)として写真集にまとめられ、同名の展覧会も開催された(2015/表参道ヒルズ)。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
末井昭『パチプロ編集長 パチンコ必勝ガイド物語』(1997/光文社)
「歴代編集長が振り返る、雑誌「ダ・ヴィンチ」20年史」(2014)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな
岩波書店系 写真・映画に参入
<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>
---2 1979 メディア間の交代劇
⑥―――岩波書店とATG 良心的映画か? 娯楽映画か?
ここまで何度となく出てきた、日本アート・シアター・ギルド(ATG)について詳しく見ておきたい。
ATGは、戦前から欧米の映画の輸入を行ってきた東和商事(戦後に東和映画へ改称)を率いた川喜多長政の妻・かしこが提唱した。
東宝の森岩雄が賛同し、三和興行の3社で設立する(1961)。
「世界の名作を集めて贈る」がキャッチフレーズだった。
ATG関連の映画は、主に、アートシアター新宿文化(現在その場所には角川シネマ新宿とシネマート新宿が建つ)、日本劇場の地下にあった日劇文化(現在その場所には有楽町センタービルが建つ)などで上演された。
こうした動きの背景には、大手とは違う、独立プロダクション化の動きもあった。
松竹・東宝・大映・新東宝・東映・日活の監督たちは、商業映画とは一線を画す作家性の強い芸術映画を目指し始めていた。
1958年を境にテレビの時代となり始め、映画産業の斜陽化が始まっており、低予算・粗悪品が乱発される事態に陥っていたためだった。
当初ATGは、芸術系の外国映画の配給・上映が主だったが、外国人映画監督と石原慎太郎監督らのオムニバス『二十歳の恋』(1963)、三島由紀夫・主演・脚本・監督『憂国』(1966)では、配給として関わる。
やがて、外国映画の輸入金額の高騰もあって、1968年を境に、洋画の紹介から、邦画の割合が増えていく。
日活から独立したばかりの今村昌平『蒸発人間』(1967)がその先駆となった。
このとき制作にあたってとられた、1千万(ATG500万+独立プロ500万)という方法が、基本スタイルとなる。
当時の大手の3分の1~5分の1、日活ロマンポルノ(300万)よりは高いという設定だった。
ATGで映画を手がけた監督たちを見ていこう。
羽仁進、松本俊夫、実相寺昭雄、寺山修司、田原総一郎、若松孝二らは、大手映画会社で助監督経験のないメンバー。
新藤兼人・大島渚・吉田喜重・篠田正浩(松竹出身)、今村昌平(松竹、日活出身)、熊井啓(日活出身)、岡本喜八(東宝出身)、増村保造(大映出身)、中島貞夫(東映出身)ら、撮影所出身のメンバーも参加している。
今村の『蒸発人間』から5年の間だけでも以上のメンバーになる。
ATGで日本映画の上映が上回った1968年、岩波ホール(神保町)が誕生する。
岩波ホール支配人・高野悦子(岩波書店創業者の長男の妻は実姉)は、外国映画の上映が減少していくなかで、川喜多かしこの呼びかけを受け、ともに外国の名作上映運動「エキプ・ド・シネマ」を主宰する(1974年より)。
ここに、ATGと岩波の動きがつながっていくことになる。
この時期、東和映画は「東宝東和」となっている(1975)。
ATGと岩波、東宝と東和がつながった頃、ATGは、横溝正史原作の『本陣殺人事件』を映画化する(1975/監督・高林陽一)。
すでにふれたが、芸術系のATGが、話題の小説を原作とした、最初期の商業路線の作品となった。
続いて、五木寛之原作小説『変奏曲』(新潮社)を同タイトルでATG初のオール海外オケで映画化(1976/監督・中平康/撮影カメラマンは写真家の浅井慎平/製作は『話の特集』編集長・矢崎泰久)。
長谷川和彦監督の中上健次の短編小説「蛇淫」原作『青春の殺人者』(1976)も、この年、中上が芥川賞を受賞しており、この路線だった。
岩波とATGとの関わりは、さらに前史がある。
ATG映画の制作について伺い知れるため、見ておこう。
1950年、岩波映画製作所が設立される。
物理学者・中谷宇吉郎の元、科学映像の制作を目的に前年生まれた中谷研究所プロダクションが前身だった。
岩波書店とは資本関係はないが、岩波書店の小林勇(岩波書店の創業者・岩波茂雄の娘婿で、岩波文庫、岩波新書の創刊に携わる)の「いわゆる文化映画を作る」を目的に設立された。
以後、写真、科学系テレビ番組、記録映画を主に手がけていく。
小林は、「上映する映画館を持っていないこと」「映画人には癖のある人物が多いこと」から、写真学校を出た若者を育てていく方針をとった。
そして制作実績を積み重ねていくため、実写によるPR映画の製作と普通写真の仕事を母体にし、普通写真の仕事は「岩波写真文庫」の創刊となった。
その中心人物として、戦前、日本工房を率いた名取洋之助が招かれた。
東松照明(第1回日本写真批評家協会新人賞受賞者)、長野重一(のち『朝日ジャーナル』嘱託)らの写真家も働き、8年にわたり、静物写真をまとめている。
映画制作としては、監督では、羽仁進・羽田澄子(ともに岩波写真文庫の編集から転身)、黒木和男・土本典昭・小川紳介・東陽一(のちに「青の会」を結成)、田原総一郎(のちにジャーナリスト)。
そのうち、羽仁進(1963,68,72)、黒木和雄(1966,70,74,75)、田原総一郎・清水邦夫(1970)、東陽一(1978,79)など、多くの人材がATGで映画を発表していく(()内はATGでの制作年)。
岩波映画製作所の出身者は、ATGを支える要因ともなっていた。
話を1979年に絞ろう。
ここまで見てきたように、映画『限りなく透明に近いブルー』『エーゲ海に捧ぐ』が公開された1979年、ATGでは、岩波映画製作所出身・東陽一監督作品『もう頬づえはつかない』(主演・桃井かおり)を公開する。
原作小説は、見延典子の早稲田大学・文芸科の卒業論文で、前年『早稲田文学』に掲載され、講談社が出版した。
同時期、平岡篤頼が主導する『早稲田文学』~講談社の流れで、三石由起子・田中りえが続けて小説家デビューし、“女子大生作家”ブームが生み出されていく。
この年、ATG社長・佐々木史朗(早稲田大学在学中に早稲田自由劇場を設立し、卒業後はTBSへ入社。演劇界・テレビ界・映画界と渡り歩く)は、こう書いた。
ことに製作に関する限り、“企業”と“独立プロ”とはもはや正確な反意語とは呼べず、企業イコールメジャーという何かしらの一方的な言葉のひびきもうすれつつある。
(引用者中略)
“企業=俗流の娯楽映画”“独立プロ=良心的な映画”という二元論は既に不毛なのであり、製作の実態をうしないつつある
1979年、独立プロの動きも行き詰まりをみせていた。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
『ATG映画の全貌』(1979/夏書館)
朴文順/早稲田文学編集室『平岡篤頼と早稲田文学』(2014)
小林勇『彼岸花 追憶三十三人』(1968/文藝春秋)
『私の履歴書 文化人4』より「小林勇」(1983/日本経済新聞社)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな
角川書店×電通×ワコール×資生堂×CBS・ソニー
<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>
---2 1979 メディア間の交代劇
映画『エーゲ海に捧ぐ』の配給は、ATGとも関わりの深い東宝東和が手がけた。
当時、東宝東和は、“エーゲ海ブーム”を生み出せないかと考えていたという。
そのきっかけは、“ディスカバー・ジャパン”を仕掛けた電通の藤岡和賀夫を中心とした、ワコールと資生堂をスポンサーとしたクリエイターたちとの旅行だった。
池田満寿夫、CBS・ソニーのプロデューサー酒井政利(南沙織、郷ひろみ、キャンディーズ、山口百恵らを担当)、画家・横尾忠則、作詞家・阿久悠らがそのメンバーにおり、南太平洋で、広告のアイデアを考えるという贅沢なものだった。
この旅自体が話題にもなり、当時、南太平洋ブームも起こっていたという。
“エーゲ海ブーム”はそれに次ぐものが目指された。
実際、酒井は、CBS・ソニーから、南太平洋をイメージしたアルバム『Pacific』(1978)に続いて、エーゲ海をイメージしたアルバム『the AEGEAN SEA (エーゲ海)』(1979)を発売している。
『エーゲ海に捧ぐ』の小説はそもそも『野性時代』の編集者からの依頼によって書かれたものであり、映画化も、そもそも大掛かりな展開として計画されたものだった。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
池田満寿夫『鳥たちのように私は語った 池田満寿夫対談集』(1977/角川書店)
速水健朗『タイアップの歌謡史』(2007/洋泉社)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな
野生時代新人文学賞から芥川龍之介賞へ
<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>
---2 1979 メディア間の交代劇
④―――国際的版画家・池田満寿夫 芥川賞受賞者・映画監督デビュー
村上龍が芥川龍之介賞を受賞した翌年、池田満寿夫が『エーゲ海に捧ぐ』(1977)で芥川賞を受賞する(受賞当時41歳)。
池田は、高校卒業後、独学で版画を始める。
東京国際版画ビエンナーレ展の入賞をきっかけに、ニューヨーク近代美術館で日本人初の個展を開催。
芸術家として話題の人物に(1965)。
渡米・渡欧後、ヴェネチア・ビエンナーレで、日本人として2人目(1人目は棟方志功)となる版画部門の国際大賞を受賞(1966)。
国際的に知られる芸術家となった。
『エーゲ海に捧ぐ』は、ローマを舞台に、主人公の青年と3人の女性との愛欲の日々を描いた、池田の半自叙伝的な物語になっている。
『野性時代』から依頼されて連載し、第3回野性時代新人文学賞を受賞したのがこの小説だった(1976)。
その翌年、芥川賞を受賞した(三田誠広「僕って何」と同時受賞)。
村上と同じく、池田も装丁を自ら手がけた単行本(角川書店)は、ベストセラーの7位(出版指標年報)を記録した。
1979年、池田が脚本・監督を手がけ、『エーゲ海に捧ぐ』は、映画公開される(製作は元・大映の製作主任・熊田朝雄)。
主演は、のちにポルノ女優チチョリーナとして有名となるイロナ・スターラ。
制作国はイタリアと日本。
映画の最後には、池田の何度目かの事実婚の女性となる佐藤陽子のバイオリン曲が流れた。
さらに、ジュディ・オングが歌う「エーゲ海のテーマ 魅せられて」(CBS・ソニー)が作られ、イロナ・スターラが登場するワコールの下着のCMにも利用されている。
「魅せられて」は、映画化の年、2年目を迎えたばかりのランキング形式の音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)で最高位4位を記録。
レコード大賞(TBS系)も受賞。
ジュディ・オングは「NHK紅白歌合戦」に初出場を果たしている(我々は、CBS・ソニーからレコードデビューした、天井桟敷のカルメン・マキを思い出すだろう)。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
池田満寿夫『鳥たちのように私は語った 池田満寿夫対談集』(1977/角川書店)
速水健朗『タイアップの歌謡史』(2007/洋泉社)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな
村上龍 登場
<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>
---2 1979 メディア間の交代劇
キティ・フィルムが誕生しようとしていた頃、村上龍が「限りなく透明に近いブルー」(1976)で芥川龍之介賞を受賞する(受賞当時24歳)。
村上は、出身地・長崎県佐世保市で、ヒッピー文化をもろに受けた学生時代を過ごしたのち、上京後、美学校へ入学(半年で退学)。
その後は武蔵野美術大学で学ぶ(中退)。
学生時代の体験を基にした「限りなく透明に近いブルー」は、文芸雑誌『群像』(1946年創刊/講談社)に掲載され、群像新人文学賞を受賞。
同年、芥川賞の受賞となった。
装丁も自ら手がけた単行本(講談社)は、その年のベストセラーの1位(出版指標年報)となった。
村上は、芥川賞を受賞した頃、できたばかりのキティ・フィルムに関わり、映画のプロットの提案を行っていた。
けれども長谷川は乗ってこなかった。
そこで、痺れをきらした多賀が、村上の『限りなく透明に近いブルー』の映画化を決断した。
こうして、1979年、公開されたのが、『限りなく透明に近いブルー』(配給・東宝)だった。
芥川賞受賞者の華々しい映画監督デビューという計画ではなかった。
音楽事務所からスタートしたキティ・フィルムは、公開の同年、キティから、井上陽水、小椋佳らの演奏を含むサウンドトラック盤を発売。
映画は、音楽映画的な装いともなった(キティ・フィルムの取り組みは、角川春樹事務所との共同製作の東宝配給映画『セーラー服と機関銃』(1982)のヒットで結実する)。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
古東久人編集『相米慎二 映画の断章』(1989/芳賀書店)
『ATG映画の全貌』(1979/夏書館)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな
多賀英典 登場
<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>
---2 1979 メディア間の交代劇
②―――レコード会社から独立 映画事業へ参入 キティ・フィルム
老舗の文芸出版社がスター写真家に依頼するようになった頃、映画製作に新たな企業が参入する。
戦後の映画産業への異業種参入の事例は、すでにふれた角川春樹だけに限らない。
それ以前にもテレビを拠点とした渡辺プロダクションがクレイジーキャッツの映画を中心に、ホリプロが森昌子・桜田淳子・山口百恵の“花の中三トリオ”の映画を中心に、芸能事務所が映画の製作に関わっている(ともに配給は東宝)。
そうした流れと入れ替わるように、大映は倒産(1971)。
日活はロマンポルノへ(1971)。
東宝は制作機能を5つに分社化(1971)して配給中心に。
東映は時代劇路線からテレビ放送しにくい任侠路線へと舵を切っていく(その後は、角川映画と提携・配給へ)。
松竹は『男はつらいよ』シリーズ(1969年より)の独自路線を歩んでいく。
こうした時代、映画事業へ参入した一人が、多賀英典だった。
外資系のレコード会社ポリドールのディレクターだった多賀は、井上陽水、小椋佳など当時台頭してきたフォーク系の音楽家を担当し、ヒット曲を生み出した。
そして、キティ・ミュージック・コーポレーションとして独立(1972)。
やがて、多賀は、映画製作に乗り出していくことになる。
設立メンバーには、日活出身の長谷川和彦と相米慎二らが名を連ねた。
独立プロ化が進むなか、日活を首になった長谷川は、芥川龍之介賞受賞者・中上健次の短編小説「蛇淫」(河出書房新社)原作『青春の殺人者』で、今村プロ・綜映社・ATGの制作、ATG配給により、映画監督デビューしていた(1976)。
『青春の殺人者』は、公開の年、『キネマ旬報』でその年の日本映画のベストワンに選定。
長谷川は30歳での映画監督デビューとなったが、徒弟制度がまだまだ強固で技術を独占していた映画界で、そのことも話題になった。
こうした転換期のなか、多賀は、長谷川の映画を撮るために、キティ・フィルムの設立を進めた。
けれども、キティ初の映画が生まれるまでには、時間がかかった。
相米によれば、当初、どんなプロットを提案しても、長谷川が乗らなかったという。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
古東久人編集『相米慎二 映画の断章』(1989/芳賀書店)
『ATG映画の全貌』(1979/夏書館)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな
写真家が文芸家を乗り越えた
<第4章 映画時代の終焉/音楽産業の前景化>
---2 1979 メディア間の交代劇
売上げの低迷していた写真雑誌の世界で木村伊兵衛写真賞が創設された頃、文芸雑誌では、ポートレイト企画のリバイバルが行われる。
そして、斜陽化の始まっていた映画産業には、角川春樹だけでなく、さらに新たな企業が参入していく。
1974年、小学館は、総合男性雑誌『GORO』を創刊する(1992年まで)。
翌年、篠山紀信は、“激写”シリーズを始めた。
当時のトップ・アイドル山口百恵が第1回の被写体となった。
以後、篠山は、同シリーズで、一般女性のセミヌードや著名なアイドルのきわどい写真を撮影し続けた。
掲載した写真をまとめた写真集『激写・135人の女ともだち』(1978/小学館)はベストセラーとなり、主要都市で展覧会が開催される。
“激写”は、商標登録もされた(1980)。
このヒットから、小学館では、『GORO』の編集者・島本脩二らが、篠山をメインにすえた写真雑誌『写楽』を創刊する(1980-85)。
篠山は、この時期、『明星』(集英社)の表紙も手がけており、集英社に続いて、その親会社だった小学館は、篠山の拠点となっていく。
『小説新潮』(新潮社)は、スター写真家となっていた篠山に、文芸家のポートレイトの連載を依頼する。
1979年からスタートとした「日本の作家」と題したシリーズになる。
ここで、木村伊兵衛、林忠彦、田村茂、土門拳、細江英公を思い起こそう。
彼らが文芸家のポートレイトを撮影したのは、写真家として著名になる以前のことだった。
1979年、このとき著名な写真家によって著名な文芸家が撮影される時代へとなった。
“激写”の延長線上に文芸家全般が置かれたともいえるかも知れない。
「日本の作家」シリーズの初年度に撮影された文芸家は次になる。
当時の時代が伺える。
1月号…井上靖、2月号…松本清張、3月号…有吉佐和子、4月号…池波正太郎、5月号…大岡昇平、6月号…石川達三、7月号…円地文子、8月号…吉行淳之介、9月号…新田次郎、10月号…曽野綾子、11月号…井上ひさし、12月号…井伏鱒二。
また、「日本の作家」では、ポートレイトにエッセイが添えられた。
こちらも初年度の担当者を見ておこう。
1月号…北杜夫、2月号…和田勉、3月号…虫明亜呂無、4月号…江國滋、5月号…丸谷才一、6月号…戸川幸夫、7月号…大庭みな子、8月号…長部日出雄、9月号…山田智彦、10月号…三好京三、11月号…宇野誠一郎、12月号…藤原審爾。
2年目、3年目に入ると、エッセイを担当した、藤原審爾、吉村昭、北杜夫らも被写体にもなっていき、文壇交遊録的装いを見せていく。
「作家の仕事場」のタイトルにこだわった篠山は、新潮社系以外の文芸家にも被写体を広げていった。
結果、「作家の仕事場」は、「往復書簡」「日本人の仕事場」というかたちへと発展していき、15年にわたり続いた。
篠山は、このシリーズを撮影するにあたり、次のように考えたという。
なぜか文士写真というのは、いつもモノクロなんですよ。
それも大型カメラで、きちんとライティングして精密描写。
つまりそれは必然的に、「写真家=偉大な芸術家」が撮った「文学者=偉大な芸術家」の肖像写真になる。
僕はまったく違った手法で取ることにしたんです。
カラー、小型カメラ、なるべく自然光、それに細密描写じゃなくて雰囲気描写。
これで決定的にこれまでの文士写真とは変わりましたね。
みんな作家をいかにも神の如く偉そうに撮ってるけど、そういうもんでもないだろう。
同じ人間なんだから生身の作家をよく見て撮ればいいんじゃないかと考えたわけです。
ここで、我々は、木村伊兵衛がライカを手に文芸家のポートレイトを撮影した際に述べた言葉を思い出すだろう。
篠山は、木村の言葉を、逆説的なかたちでリバイバルしている。
また、「雰囲気描写」と述べた篠山は、撮影にあたり、唯一の注文をつけた。
それは、「書斎を見せてほしい」というものだった。
すべての文芸家から了承を得られはしなかったが、書斎での執筆風景がカメラに収められた。
ここで,、我々は、林忠彦が写真屋の写真と報道的写真を重ね合わせた言葉も思い出すだろう。
実際、「日本の作家」シリーズは、およそ30年前、林忠彦撮影による『小説新潮』巻頭グラビア“文士シリーズ”の系譜にある。
篠山は、連載時、「土門拳、林忠彦、木村伊兵衛」のことが念頭あったと語り、その名指しの順に篠山がどのように文芸家の写真をイメージしていたか伺えるだろう。
つまり、先の引用は、土門拳への批判的な取り組みだった。
先行事例があるため、すぐには気乗りがしなかったという篠山だったが、新潮社出版部長・新田敞の「カラーで作家の写真を」という提案で、ようやく乗り出せたという。
篠山は、さらに続ける。
僕の撮り方は、写真家のスタイルを押しつけるじゃなくて、あくまで相手に喜んでいただけるように撮る。
(引用者中略)写真というのは相手がいて初めて写るんだし、それも機械が動いて撮るものですよ。
それを自己の主体性なんて言ってたら駄目です。
ここで、我々は、林忠彦へ土門拳が行った批判「いちいち雑誌に合わせることはない」を思い出すだろう。
やはり、篠山は、土門へ批判的だった。
では、篠山にできることは何なのだろうか?
荒木経惟との対談で篠山は次のように述べている。
僕は時代と伴走していたいという気分がある。
だから、その時代のカメラでとる。
そのひとつに、篠山が、“シノラマ”と呼んだものがある。
複数のカメラをセッティングし、同時に、ときに時間もずらして、撮影を行う方法も開発している(1983)。
「作家の仕事場」で撮影された写真は、1986年、同名で単行本化(新潮社)。
さらにその10年後、『定本・作家の仕事場』として発売された。
その際、134人を選び、掲載順は文芸家の生年月日順に再構成する。
そして新たに柳美里のポートレイトを撮り下ろし、福田和也のエッセイを加え、計135名とした。
自身の写真集『激写・135人の女ともだち』を意識した数だった。
やはり“激写”の延長線上だった。
*原典:
私家版『文芸メディア発展史~文芸家/写真家/編集者の追いかけっこ~』(2016年9月発行)
*主な参考資料:
篠山紀信『写真は戦争だ! 現場からの戦況報告』(1998/河出書房新社)
篠山紀信『定本・作家の仕事場 昭和から平成へ読み継がれる日本の作家一三五人の肖像』(1996/新潮社)
荒木経惟写真対談集『純写真から純文学へ』(2000/松柏社)
筆者執筆参加。文芸家26名のポートレイトを収めた写真冊子『著者近影』(松蔭浩之撮影・デザイン/男木島図書館2016年4月発行)は、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店(渋谷)、タコシェ(中野)、NADiff a/p/a/r/t(恵比寿)の店頭などにて、現在手にとって頂けます。
収録文芸家:
青山七恵/池井戸潤/池澤夏樹/冲方丁/大野更紗/金原ひとみ/京極夏彦/窪美澄/沢木耕太郎/篠田節子/高橋源一郎/滝口悠生/谷川俊太郎/俵万智/辻村深月/堂場瞬一/早見和真/平野啓一郎/穂村弘/三浦しをん/道尾秀介/本谷有希子/森村誠一/山田詠美/吉田修一/吉本ばなな